白日朝日のえーもぺーじ

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アイドルアニメという「作品性」について 序:映画『トラペジウム』についても触れながら

注:この記事は少なかれど現在上映中の映画『トラペジウム』へのネタバレ込みの私感と、自分語りも含めたものになります。ウザさにご注意ください。

 

 

 

 初日初回にほぼ劇場PVのみでのインプットのみで『トラペジウム』を観た者です。(2回目視聴は事情によりまだ行なっておりません)

 そのときの感想に近いところの感情は『尖り切って欲しかった』『どうせならあんな少し間を取った感じにせず、もっとアイドルアニメ文脈を踏んだほうが、きちんと媚びられて売れたんじゃないかな』という相反したものでした。

 前者の感想は筆者自身が持つ「人間ドラマが好き」というラインから来るもので、狂気で周りを巻き込んで踏み外しつつも芸術の世界に呑み込まれていくような作品では洋画の『セッション(原題:Whiplash)』のようなやつが好きで、ただまああそこまで削ぎ落とせという話でもないのですが、どうせ常人から少し外れた道を行く女の子なら、アイドルというものに入り込んでもっと「演じきってしまえばいい」みたいな、ある種の『千年女優』めいたものを求めてしまったのだと思います。

 いわゆる2010年代の『ラブライブ!』でほぼ型を完成させちゃった、『アイドルアニメ』の括りにあるもの、「学生で、才能の形が分からない女の子たちが」、「他のアイドルに憧れるなどの『輝き』を見つけて」、それを目標にしながらなにか目標である(『ラブライブ!』なら「大会の優勝と廃校の危機を救う」、同シリーズ次作のサンシャインもある程度同じ、『アイドルマスターシンデレラガールズU149』なら、「アイドルとしての自己表現を見つけて、無二のプロとして大きなステージで歌い踊ること」、なんなら少し横道からのアプローチである『推しが武道館に行ってくれたら死ぬ』でさえ、「ChamJamを日本武道館に立たせる」という)命題があって、そこで最も象徴的な作品である『ラブライブ!』シリーズが特にやって来たもの、彼女たちが大切なインスピレーションを得た瞬間や成長を伴ったときに、自分たちの楽曲として、自分たちの『ライブ』を披露しながら目標を達成しにいくことにあります。

 それは良きにつけ悪しきにつけ、多くのフォロワーと呼べそうな作品群を生み出した、パイオニア性を持った作品で、以後の3DCGで学生アイドルのライブシーンが挟まれる作品というのは雨後の筍の如く出て来たかと思います。

『トラペジウム』の話に戻りまして、あの作品は少なからず意図的にそういったアイドルアニメのジャンル性を比較的丁寧に踏みつつ、ひとつひとつの行動に「純粋な自己犠牲のような『清らかなアイドル像』なんてないよ。でもそこには仮面の下で素顔でアイドルを夢として語るひとりの少女がいるよ」と言って回るようなところがあったかと思います。

 自分は『トラペジウム』のことを初日初回の視聴後感想としてhttps://x.com/halciondaze/status/1788761972609323445?s=46

と言っており、作品のことは当然好きで、一方でもうちょっとだけ削ぎ落とすか、飾り立てるあたりがあの作品の魅力を引き出すものかと思っておりました(がこの辺は後ほどさまざまな方面からの感想を観ながら変わった部分もあります)、ただあの作品もアイドルアニメというジャンルを嫌いなわけでもありませんが、「ソリッドに唾吐き捨て中指立てることで異質な傑作になる」か、「もっと仲良くなる過程を見せてあげたり、ライブをひとつで終わらせないほうがヲタウケは得られるのでは」くらいの感覚が(初日初回の某シネコンでの上映がキャパの十分の一にしか満たなかったし、なんなら上映当日早朝予約で1番から2番人気の席を予約できた)場所で観た温度感ですね。

 だからまあ良くも悪くもバズったし、結果としてそのバズが前提で観に行ったであろう観客が増えたことには「良かったな」という感想しかありません。(どうせオタの好きなジャンル評価やウエメセ商業性アドバイスなどハズれます)

 東ゆうちゃんが、賛否ありながらも意外と共感を得たあたりの温度感が、『現代かな』と思ったのもまた事実です。

 世は「セルフプロデュース」の時代であり、身を置いてしまった社会によっては常に自分を「どう見せるか」考えなくては、キチンとそこに存在している気のしない時代感があると思います。

 かくいう筆者も大昔のTwitter(現:X)アーリーアダプターの時代は、なんでか知らんけど2000フォロワー弱をまだあのSNSが人口爆発起こす前に持っていた人間で、ただそこにはだいぶと素の自分と違うところでキャラ付けして、「こういったオタクくんが、インターネットではかわいがられる」像に自分をチューニングしていたきらいがあります。また本人の素養として、周りの魅力的な人物が楽しんでいるものに対して影響を受けやすく、共に楽しんでしまうというのに抵抗が薄かったというのもあります。

 おかげで当時は「そこそこサブカルめいた現代文系っぽいナードなルゥシイさん」が、そこそこ受け入れられたところがある気がします。

 ただ、それは一方で、Twitter開始序盤から存在していた『ふぁぼったー』という、今でいう「いいね」数を計るサイトを見ながら(公式ブラウザやアプリなどでは数値の監視が、できなかった)、そこである程度良い評価をもらえるように戦略性や競技性を持って、自分のアカウントを運営していたところもありまして、だからその仮面をつけっぱなしで行った、最初の大規模なオフ会は個人的にトラウマもののスベリっぷりで終わるわけですし、後の頃には他の素因もありますが、そういったアプローチに疲れて、現在の消して復活させたアカウントに落ち着くまで、一度リセットの期間を置きました。

 だからまあ、なんとなく東ゆうちゃんの断罪されるような詰めの甘さも、セルフプロデュースを発端とするエゴイスティックなアイドル結成〜デビューまでの運営も、個人的にはある種の共感であったり、黒歴史ノートを開いた感覚のほうが強かったりもしました。

 自分のための作品では割とあるんだけど、もっと詰めて欲しかったなあという、そういった欲求です。実のところは欲しいもの100ぱーせんとに振って欲しかったのだと思います。

 ただまあ、観た当日レベルでの感覚で「ゆうちゃんが、東西南北を結成する過程でくるみちゃんたちと仲良くやっていくシーンを、全面的に描写として最低限度かそれをやや下回る程度に削っていったのは英断かなあとも思いました。

 いろんな気持ちはありますが、特別な作品であることに変わりはなく、まただいたいの好きな作品に関しては好意的であれどうであれ、いろんなひとに届いて欲しい感情があったので、バズってからそれなりの拒絶まで含めた反応を信頼できる口から聞けるのも良かったです。

『トラペジウム』に関してはそこまでにして、次回は「アイドルアニメと『ラブライブ!』という特異点、また『ガールズバンドクライ』との繋がりかた」あたりの話ができればなと思いますが、たぶん更新はけっこう間が空くかと思います。

 ちなワイくんは、今のところ直近で観た『ウマ娘プリティーダービー 新時代の扉』が、アクションアニメーションとしての今年最高クラスの傑作として、『好きでも嫌いなあまのじゃく』を自分の好みとしての大好きな作品として書き置いておきますので、PVでも観てハマったらぜひ劇場版へ。

 後者は同スタッフ陣で制作された『泣きたい私は猫をかぶる』へ、多少の消化不良感があるひとには凄く上質な仕上がりになっているのではないかと思います。