白日朝日のえーもぺーじ

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(※ネタバレ長文感想)『君たちはどう生きるか』について君たちは感想をどう書くのか

・前書き

  スタジオジブリの劇場作品ってほとんど観てきたと思うんですが、 ほとんどが金曜ロードショーみたいなところで、実際に劇場で見た作品は本作が初めてになります。今回の事前情報をほとんど封鎖しちゃうというところに惹かれたのではないか、体験の独り占めみたいな優越感に浸りたかったというようなところですね。

 ちなみに筆者がこれまででいちばん好きなスタジオジブリ作品は頭ひとつ抜けたところで『耳をすませば』です。なにげないひとつの街、団地生活の小説家を目指す少女の雫と、彼女が少しの非日常感を持った猫のムーンに連れられた住宅街のなかの「地球屋」の世界で出会う様々なもの、バイオリン職人を志し努力する少年聖司との淡い恋と大きな成長の物語のなかの、特に放映当時の現実世界に近い日常的な風景を、スタジオジブリ作品らしく美しい、でも誇張を抑えた情景描写で描いていくのが大好きでした。

 筆者が物語を書くことに憧れるきっかけになった作品でもあるかも知れません。

 

 それから宮崎駿作品で特に好きなものは『風立ちぬ』『魔女の宅急便』『紅の豚』です。

 

風立ちぬ』には創作者としての自分に深く刺さる物語であると同時に、つくったものが生き物であることを思い知らされたこと、号泣するほど感動させられたことが大好きなところですね。主題歌であるユーミンの『ひこうき雲』は今でも何度も聴く大好きな曲です。

魔女の宅急便』は特に深く語りたい部分があるわけではありませんが、作品のなかのキキが暮らす舞台の美しさがやっぱりいちばんですね。メガネ(トンボ)はよく知らん。キキとジジとオソノさんがかわいい。

紅の豚』はいわゆるロマンの詰まった叙情的かつ、空賊と戦い合うシンプルな空戦のワクワクさせる楽しさ。ジーナやフィオとの恋、ポルコの「彼らしいかっこよさ」を持つ生き様に惹かれる作品でもありました。そしてアドリア海の青は美しい。

 このラインナップを見てわかるとおり、筆者の駿作品にまつわる好きなところってとっちらかっている気がします。

 そんな自分が今回(ブログ執筆中段階で2回)観た『君たちはどう生きるか』の感想やらでありますが、拙い部分もありますが御覧ください。

 

・感想

 初見は「映像がとにかくすごい作品」でした。スタジオジブリ作品のど真ん中な魅力である、ひとや人外も含めて活き活きとした動きで描きだされる、まるで作中に登場するすべてが生き物であるかのような動きのアニメーションの魅力。それから現実的な風景も非現実的な風景もこれまた実際に存在する質量や情報量を持って描かれる情景を切り取る美術的な映像美。スタジオジブリ作品が持っていて、唯一無二と思わせられるところの魅力が強く生きていた作品でした。

 脚本はよく分からないけれども、とにかく恐ろしいほどのアニメーションを観ていて楽しむといった作品。「君たちはどう生きるか?」という問いには「知らんわ、ぼくに託された部分が少ない」という初見での感覚でしたかね。

 というわけで、「よく分からんアニメ作品は二回くらいは最低観ておけ」という祖父からの遺言(嘘)を胸に、フットワークも軽く二度目の視聴をして参りました。

 はっきりとした理由は分かりませんが、一度目の視聴よりも二度目の視聴のほうが体感時間が圧倒的に短く感じられました。脚本に対する理解であったり観たいところへの集中があったことや、物語を把握していることもあったかも知れません。

 二度見て考えの変わった、この作品への感想は

「すごいアニメーションの興奮が芯として通り、大まかに理解するまで細かく見る必要があるけれど伝えたいことや物語に破綻は決してなく、行きて帰りし物語らしい冒険モノとしてワクワクする楽しい作品であること」でした。

 ちょい難しい作品であるとは思います。割とアニメーションを脚本の魅力で観るタイプの自分でも、自分なりに読み取るのに苦労をしたところがあるので。

 生まれて一本目のスタジオジブリ作品にはやっぱり『天空の城ラピュタ』や『となりのトトロ』なんかを勧めるところであり、本作品はもうちょっと大人になってからのほうが魅力が伝わるんじゃないかと思います。

 

・ストーリー解釈やあれこれ

 まっすぐな行きて帰りし物語、自分の世界を生きる主人公が、非日常へとトンネルをくぐり、そこに出会ったもの手にしたものを日常に持ち帰り、彼の成長の糧にする。軸は結構「ど」がつくほどにシンプルです。

 この構図についてはおそらく筆者も含めて視聴したほとんどみんなが一度目で理解できること、であると思いますし、そのシンプルさも魅力であるとは思います。

 ただ、初見でそこそこ理解が難しいと感じるところは「主人公である眞人が持ち帰ったものはなに?」、そこから繋がってゆく「君たちはどう生きるか?」という問いは誰に向けられたものであり、その答えはきちんと作品中にあったのかという部分、問いに視聴者としてどう捉えてゆけばいいのか、ではないかと思います。ここからは物語を振り返りながら、読み込んでゆくこととしましょう。

 一応、ところどころの本作の感想や解釈で見た「このキャラクターは宮崎駿自身を描いている」であったり「この部分はスタジオジブリ作品の〇〇のオマージュである」、「君たちはどう生きるか、という問いへの答えは現在のスタジオジブリであったり、アニメーションクリエイターに向けられている」的なメタ解釈はしない方針で書いていきます。そもそものスタジオジブリ宮崎駿理解についても自分はそれほど深くはないので。

ということでここからは物語のネタバレというか完全に物語全部を語りながら考察しちゃうので、未視聴者さんが読みたい場合は自己責任でよろしくお願いします。

 

 

―序盤のあらすじ

 物語の導入は、太平洋戦争中の東京の空襲による火事で母を失った少年、眞人が、父親と疎開してきた先で継母となるナツコと出会い、広い敷地の屋敷暮らしとなり、その敷地内にある「塔」に心惹かれていくお話になります。

 ここまでのお話で重要な部分なのですが、彼はまだ亡き母(ヒサコ)への思慕が強く、継母であるナツコには心を開いておりません。眞人とナツコが親子関係として初めて対面する挨拶のシーンでも、礼儀程度の挨拶をし、眞人がナツコと屋敷へ向かう人力車に乗り、ナツコが眞人の父との子がお腹にいることを明かすシーンでも、その新たな兄弟の存在を快く思っていない雰囲気を見せます。

 恐らく、屋敷に至るまでの眞人はナツコや彼女が宿した新たな生命、それから屋敷暮らしそのものに対しても一種の無関心以下の悪感情しか持っていません。

 欲しくないもの、欲しくない現実、こういったものに囲まれて眞人の疎開先での生活は彼の諦念をもって始まります。

 眞人はそれから疎開先の学校へと編入することになりますが、父が工場のオーナーあり、いわゆるボンボンである彼は身分の違う他の生徒との関係も快く思っていません。明確ではありませんが、眞人が同級生を見下すような視線もあります。

 それから下校中、彼は待ち伏せていた男子生徒と取っ組み合いの喧嘩になり、怪我をしながら家路へ向かいます。その帰路、眞人は転がっていた石で自分の側頭部を殴り、派手に流血しながら家へと向かいます。

 このあたりの解釈については彼の心中が明確に明かされる場面もないので難しいかも知れませんが、ひとまずシンプルに喧嘩による怪我を大袈裟にすることで、父による喧嘩相手への報復が大きくなることを望んだ、と解釈いたしました。(父に対して眞人は報復を望んでいない素振りを見せますが)

 またその一面で、こういった喧嘩を招いた自分の見下すような目に対する自罰、というのもこもっているのではないかと思いますが……。

 その後、家で頭の治療に専念することになった眞人は屋敷での生活がほとんどになります。その間に惹かれてゆくのは、ミステリアスな塔の存在、彼にちょっかいを出すアオサギの存在、彼は日常から非日常へと少しずつ心が動いていくこととなります。

 このあたりの時系列は筆者の頭のなかでまとまっていないのですが、帰宅した父とナツコが抱き合ったりする姿を偶然目にするのが眞人にとっての、父やナツコを含めた彼自身の現実を否定するスイッチになったのではないかと思います。

 それからの眞人は彼にちょっかいをかけてくるアオサギの退治に対して積極的になり、屋敷の爺に教わりながら弓矢を作ってみたり、実母が彼へ残した「君たちはどう生きるか」という本に触れて、亡き母への思慕を強めたり、現実に対してどんどん気持ちが離れていきます。

 妊娠中に体調を崩したナツコに対しても、眞人は見舞ってみてもそっけない姿を見せては使用人である爺や婆との交渉材料になるタバコをくすねて部屋を出るような有様です。

 このあたり、ナツコ目線で考えてみると仕事中心の夫、自分に対してほとんど好意を見せない継子、妊娠にまつわる体調不良など、彼女にとっても現実から気持ちが離れていく感覚は強かったのではないかと思います。

 結果的に塔に最初に向かったのはナツコで、はじめ眞人は彼女の姿を目に留めても、屋敷の人物にすぐ知らせることはなく放置していました。

 

―塔の入り口のお話のあらすじ

  ナツコが塔に向かったことによってお話は一気に動き始めます。ナツコが塔へ向かうこととなり、にわかに屋敷中の人間は騒がしくなり、彼女の捜索を始めます。眞人自身も彼女の捜索という大義名分を手に入れ、アオサギの語る「眞人の母もそこにいる」という眉唾な言葉に、けれども導かれて彼自身も積極的に塔へと近づきます。

 眞人はぐいぐい塔へとその足を進めてゆきますが、使用人のばあや達の中でもすこしちょいワル的なカッコよさもすこし残したキリコ婆さんが引き留めようとします。しかし、結果的にキリコさんは眞人と同行するような形で塔のなかに足を踏み入れます。

 さて、ここからはもう完全に非現実、不思議の世界。向こう側の世界。世間の常識から外れた不思議な力が支配する世界。眞人はそれをほとんど恐れることなくずいずいと足を進めてゆきます。

 そこで最初に出会うのは、アオサギと、ソファーに寝かされた彼の謂う「眞人の母」の姿。眞人は彼女が実際に母であるか確かめようとして触れてみますが、まるでゼリーのように彼女の身体は崩れてゆきます。恐らくそれはアオサギが眞人の興味を引くために作り上げた人形でありますが、母の人形が崩れてゆくことやアオサギの挑発、眞人にはそれ以外にこもった気持ち、例えば危険なことをしたい冒険心のようなものもあったのでしょう、眞人はアオサギへと手にした弓にその矢をつがえ、放ちます。

 眞人が拾ったアオサギの羽を鏃に使ったそれは、逃げるアオサギを追尾するように動き、そのクチバシを捉えます。

 そうして一時的に不思議な力を失ったアオサギは眞人とともに、大叔父様のお告げにより「ナツコを取り戻す」という指名を与えられたバディになります。

 ここから、舞台は塔の応接室のような部分から一行はまるで別世界へと引き込まれ、物語は大きく進み始めます。

 

―塔の世界の深部のあらすじ

 眞人は塔の中でも何者かの墓が大きく鎮座する、海に囲まれた場所に落とされます。もはや完全に右も左も分からない世界。

 この世界の説明って、「地獄」みたいなことを言及されたようなされていないような。墓の前にある門の上に「我ヲ學ブ者ハ死ス」といことが記されてあったとは思いますが、墓の主への言及もなければ眞人たちによる墓への侵入もなく、存在としてなにか分からないものは恐らくなにかしらのメタファーであったりすると思うのですが、この世界を「死」の場所とする象徴くらいにしか自分は捉えきれませんでしたね。

 眞人は(たぶん)この場所でペリカンの群れに門の入口側から押し寄せられて揉みくちゃにされながら押し込まれていったと思うのですが、このあたりを見ると、ペリカンの存在というのは「生者」に引き寄せられ、ともすれば捕食するような存在。命に対する攻撃(あるいは積極接触)対象のようなものだと思います。

 彼らに襲われた眞人を救ったのは、ひとりの漁師の女性「キリコ」さん。彼女はボートのような船の上から、眞人を引っ張り上げて乗せてまた違う場所へと向かわせます。

 この「キリコ」さんはきっと、まだ若い頃に塔の世界に足を踏み入れたキリコ婆さんなのだと思います。ここでの冒険の経験がもしかすると、まだ眞人が屋敷でのアオサギ退治に必死な頃の弓矢づくりにアドバイスをしようとするあたりに繋がっているかも知れませんが真実のところはよく分かりません。

 さて、この世界でのキリコさんはヌマガシラという魚を釣って、それをここの住人である「殺生ができない者たち」に与えることを仕事としているようで、彼女の存在はこの場所で必要な存在のようです。

 キリコさんが暮らす、朽ち果てた巨大船の一部のようなものにたどり着いたふたりは「殺生ができない者たち」のためにヌマガシラの解体を行います。彼らは幽的存在や魂のようなものかも知れませんが詳しい言及はありません。住人の糧は少なくとも魚、それを通して「命」を食しているのかも知れません。ここでの眞人はヌマガシラの解体をキリコさんに教わりながら行います。この解体、もしかすると眞人にとっても初めての殺生であるかも知れません。慣れない手つきでヌマガシラをなんとか捌き、キリコさんは「殺生ができないものたち」やここで登場する、キャッチーな白いまんまるぽいんぽいんのちいさなゆるキャラ「ワラワラ」に提供します。

「ワラワラ」にはキリコさんいわく飛び立つための滋養が必要なようで、彼らがこの場所から飛び立ち上へ上へと向かっていくその先は新たな生命である「ナツコさんの子ども=眞人にとっての弟妹」。眞人にとってどうだったかは知りませんが、ワラワラが天に舞っていく光景はどこか美しく感動的でもあります。

 しかし、ここでワラワラはペリカンの群れに襲われてしまいます。ワラワラがペリカンに襲われることを好ましく感じず、抵抗をしようとする眞人は、この時点でナツコさんの子どもに対して感情移入をしているのかも知れません。

 そんなとき、一筋の炎の柱が上りワラワラを襲うペリカンたちに対して攻撃します。小舟に乗った少女から放たれるそれはあっという間にペリカンたちを一掃していきます。炎を操る青髪の少女、それはナツコさんいわく「ヒミ」。ナツコさんが言及するところどうやらこの世界において特別な存在のようですが筆者はこのくだりをうっかり忘れました。

 キリコさんの暮らす朽ちた巨大船での夜、眞人は一羽の瀕死のペリカンに出会い彼らと会話をします。そこで、ペリカンたちは自分たちの生まれ故郷を持ち、己の考えを持ち、ただ食べるものに困っているためワラワラを食べようとしていることを明かします。ただいたずらに「生」を貪るのではなく、眞人にとっての食事と同じような生きるための行為なのです。それはもしかすると屋敷での食事を「まずい」と評した眞人のそれよりもすこしばかり崇高な営為かもしれません。

 彼に敬意を持ったのか、眞人は船の端にペリカンの亡骸を埋葬します。眞人はそこで「死と生」を学んだのでしょう。

 はてさて、瀕死のペリカンと出会う寸前で眞人はアオサギと再会します。彼らは軽い口論などを行いますが、主導権を握るのはアオサギにとっての弱点であるその羽根を持つ眞人。以前より気軽な関係になった彼らは、キリコさんの家の手伝いを協力して行います。眞人とアオサギに対してキリコさんは「全ての青サギは嘘つきだ青サギは言ったがそれは本当か?」との問いをしますが、アオサギは「嘘つき」であると答え、眞人は「嘘つきと言っていることも嘘だ」と答えます。

 この部分、眞人の回答には「嘘つきの肯定と否定」が入り混じっているのが面白いです。元々、母の存在という嘘で騙して塔まで眞人をおびき寄せたアオサギに対して、眞人はこの時点で「嘘も言うが本当のことも言う」存在になっていることが伝わります。要は今の眞人にとってアオサギの言動は「ふつうの人間のようなもの」になっているとこの時点で示されます。

 だから彼らは再び本来の目的であるナツコさん探しのために協力しあい、キリコさんから示された次の目的地である「鍛冶屋の家」へ向かいます。キリコさんの家を出ていく際に、眞人はキリコさんの家での彼の寝床で彼を見守るように置かれていた屋敷でのばあやたちの人形からキリコさんの人形をくすねます。タバコの件もですが眞人は意外と手癖が悪い。さて、なんやかんやあってふたりは目的地に辿り着きます。

 そこで暮らすのはインコたち。それも家の中に入った眞人を捕らえて喰らおうとする明確な敵性存在。眞人は再びピンチに陥りますがそこで彼を助けるのは火を操る少女「ヒミ」、助けられた眞人たちは招かれるようにして彼女の家へと辿り着きます。

 

―塔の世界の中心部のあらすじ

 さて、眞人にとって母が焼くいちごジャムのトーストと同じ味のする美味しい食事を供されながら、歓迎される眞人。ここまでたどり着いた目的を聞いたヒミはナツコさんのことを「わたしの妹になる存在(と確か言った気がする)」、ここでヒミは眞人の母親であるヒサコの幼き姿であると確定します。しますが、このあたり特別に眞人が母との再会を喜んだりするようなこともなく、ナツコさんの捜索をするための強力な味方として捉え、ヒミはナツコさんの居場所を、塔の世界の中にある塔のなかにある時の回廊、そのなかの産屋にいると教えて彼を産屋に導き、自分はこの先に進めないと眞人だけを産屋の奥へと進ませます。

 産屋の中、神社の紙垂のようなものに守られるようにして寝台で眠るナツコさん、そんな彼女に対して眞人は当初、「ナツコさん」と呼びかけていたかと思います(このあたりの記憶がすこしあやふや)が、それでもナツコさんは目覚めません。それから眞人がナツコさんのことを「ナツコ母さん」と呼んだときにナツコさんは目覚め、しかし彼女は眞人に対して拒絶的な態度を取ります。すると産屋の紙垂も荒ぶり始め、強力な力によって眞人もヒミもそこで気を失ってしまいます。

 

 さて、このあたりも考察どころになりますね。ここではいくつかの読み解きたい要因が絡まっています。それは「眞人はなぜこの段階にいたってナツコさんを『ナツコ母さん』と認めることができたか」「産屋で行われていた儀式めいたものとは」「なぜ、ヒミは産屋に入ることができなかったのか」さらに「ナツコはなにを拒絶していたのか」、印象的なシーンではありますがその内情の細かいところはあまり説明されません。

 きちんと言及されていた部分として、「ナツコはこの場所で新たな生命を産もうとしている」、これは塔の世界のキリコさんもヒミも確か述べていたと思います。……が、これは本当なのか? という疑問は残らなくもないのです。

 ナツコさんがきちんと愛され、しあわせに出産を迎えるのであればなにも全くもって塔の世界に向かわずとも構いません。屋敷のなかには使用人のばあやたちもいますし、彼女が新たな生命を身ごもってからは医者にもかかっていたことでしょう。より安全に、ふつうに、しあわせに、子どもを出産するということに「塔」の存在は全く必要ではありません。

 ただしかし、ナツコさんは塔に向かうことを望み、出産を待ち産屋で眠る状態になっています。ひとまず、少なくとも塔に来た理由はいくつか考えられます。そのひとつとしては眞人同様に存在の拒絶を感じていた可能性。これはまあ、眞人のこれまでの態度などを見れば、自分をよく思っていないであろう(そしてもしかしたらこれから生まれてくる子にもそれほど好意的ではない)眞人がいる屋敷で、自分の大事な我が子を産む不安。なんなら彼女にとっても初めての妊娠で、それから子育てについて考えても、現状の家族構成というのは非常に不安が大きく、そもそも彼女自身がとてもデリケートな時期にあります。そんな心の揺らぐタイミングで、眞人に対して「お前の母親がいる」と唆したアオサギのような、眞人が大叔父様に誘われたのと同様に、ナツコさんに対して言葉巧みに塔での出産を勧めてくる、大叔父様の使いのような存在がいたらどうでしょう? 眞人以上に高い確率で塔に向かうことを考えるのではないかと思います。

 まあ、このあたりはナツコさんが塔に向かう理由くらいの説明にはなるのですがより安全な出産の説明にはならない気もします。なんなら塔のなかの世界はかなり繊細で、壁ひとつ触れるにも気を遣わねばならない世界ですし、そこら中に人間の捕食者であるインコが存在します。

 それから産屋にナツコさんを寝かしての出産の儀式。産屋というのが神聖な領域であることはその光景で伝わりますが、産婆のような存在もそこには見当たりません。もしかしたら、塔の産屋に彼女を縛りつけていたのは、ナツコさんの精神性。それこそ、眞人がナツコさんや新たな生命を受け止める気持ちが屋敷段階では備わってなかったのと同じように、ナツコさんはここで新た命への気持ちをしっかりと持つ、眞人やその弟妹となる存在、夫も含めた家族との未来へ覚悟を持つこと、タイトル通りの「どう生きるか?」のという問いの渦中にナツコさんはいたのではないでしょうか。

 ナツコさんがここでの出産を望んだことについては、これまで語った気持ちの整理を邪魔するものない場所で行うことでおおむね説明がつく気がします。

 ではなぜ、大叔父様から与えられた目的ではあれ苦難を乗り越えて、ナツコさんのことを求め続けてなんなら「ナツコ母さん」とまで呼びかけた眞人を、彼女が産屋で拒んだのはどうしてでしょうか。その話のひとつは簡単ではあります。

  ナツコさんは塔の世界に眞人よりも先に足を踏み入れた存在で、眞人の事情や心情、目的がどうであれ、この塔のような命の扱いが繊細な場所に足を踏み入れてはならない。要は眞人を心配する心ですね。「なんでお前こんなところ来とるねん」という気持ちになる心の動きは、ナツコさんの眞人に対する個人的な心情を除いてもあるものだと思います。

 そして、もうひとつに少なくとも自分をあまりよく思わない視線で見てきた眞人のことを彼女は見てきています。眞人が心変わりをして真摯に呼びかけたのだとしても、そんなものを知る由のなかった寝覚めの一発目、先ほど説明した通りなんで来たのか分からない眞人、そしてナツコさんにとってはまだ「自分と、その子をよく思っていないであろう」眞人が、眼の前にいれば、「いや、お前ちょっと待て、そもそもわたしにはやることもあるし、今、キミに構ってる暇もないんよ」となりはしないでしょうか?

 このあたりで、産屋でナツコさんが眞人を拒絶した理由や、塔まで赴いて産屋で実際ナツコさんがなにをおこなっていたのか、あたりには説明がつくと思います。

 さて、産屋には入れないというヒミ。これはすこし難しい話であります。眞人は入ることができて、彼女には入れません。ヒミ(ひさこ)が亡くなった者として塔のなかに存在していたら話は簡単で、一種の穢れを受け入れないことなんでしょうがそういう話ではございません。ここにいるヒミは眞人ともナツコさんとも違った時間軸で塔に足を踏み入れた存在。使用人たちの語る「幼いある時期に塔に赴いて、笑顔で帰ってきたヒサコ」であろうと思います。

 だとすると、大叔父様であったりもしかすると本人の意志により本来交わるべき存在ではないものとしてナツコさんと関係していたのかも知れません。「産屋に入るということは禁忌」という話はありますが、それだけで簡単に整理できる話ではないと思います。

 さて、眞人が「ナツコ母さん」とナツコさんを呼び、母として認めるようになった心変わりの遷移ですが、それについては特別明確には描かれておりません。少なくともこういった部分への彼自身のモノローグみたいなものもなく、視聴者にとっては突然の感情変化にも思えるかも知れません。ということで、塔に入ってからの眞人の行動を洗い出し……とまで面倒くさいことはとりあえずやりません。

 ここで重要になるのは、眞人自身が獲得したペリカンたちやキリコさんを通した、下の世界での死生観の受け入れや、ワラワラによる新しい命への思い入れ……、そういったものをまとめての眞人という人間の成長と、「眞人の母(ヒサコ)が生きている」とアオサギに唆されて塔に入ったことからの、いわゆる本来の母への別れの受け入れ、特にヒミとの出会いは「眞人との母としてのヒサコとの別れ」の決定打のようなものになったのではないでしょうか。それによって実母への気持ちが整理されて、新しい母親としてのナツコさんの受け入れと、これまで下の世界で味わってきた、人間としての営為の大変さを経験したことなどが全てまとまって、叔母や「父の好きなひと」として存在していた「ナツコさん」から、眞人の母親「ナツコ母さん」という形で受け入れることができたのではないか。この気持ちの動きもまた、眞人にとっての「どう生きるか?」に繋がっていくとは思いますが、物語はまだ続きます。

 

 閑話休題、禁忌を犯したことによる大きな力によりくだされた罰から目覚めた眞人はインコに捕らえられ張り付けられた状態、インコたちはまた眞人のことを食べようとしますが、そのピンチに再び駆けつけたのはアオサギ。彼はさっくり眞人を助けると、今度はヒミが捕らえられてインコ大王の元へと連れ去られ大変な状況にあることを伝えます。これから眞人たちはインコの群れが集まるインコ帝国の裏側を通って、ヒミの救出へと向かっていきます。

 さてここでの考察ポイントはインコ帝国やインコ大王なんですが、正直言ってあまりよく分かりません。たしかどこかの段階でインコについては大叔父様が現実世界から塔のなかに持ち込んだ生き物であることが言及されていたはずです。とすれば、大叔父様が塔で過ごすことを許した存在であるということです。塔に訪れたなかでも大叔父様の親族にあたる眞人やナツコさん、ヒミに次ぐくらいにはその行動に対して大叔父様に許しが与えられているはずです。ただ、本作におけるインコの描写は決して実物のセキセイインコそのものではありません。人間サイズに大きく育ち、人語を解する特別な生き物。ゆるキャラのようなとぼけた見た目でありながら、その実際は食性にかなり素直で、人間に対しては騙して捕らえて食べようとするような酷く残忍とも思える行動をとっています。人間を騙して食することについては、生物の本能に基づいた自然な行動と言えなくもないですが、大叔父様の親族すらも襲おうとするその生き物が行動の自由を許されていつことについてはあまり理由が思い浮かびません、それから帝国と呼ばれるほどに異常な数の繁殖が行われたこと(≒そこまで、なんらかを食して生き続けてきたこと)も同じくです。インコ大王については、繁殖が肥大し、塔のなかにおける上位存在として存在するその長であり、塔におけるある種の自治組織についての長にもあたる存在でしょう。個別のインコとは違いかなり知性は高く、行動についても無駄な残忍性や眞人たちを食そうという行動をする姿もありません。さらには大叔父様の信頼を獲得して禁忌の罰を執行する役割まで与えられています。これはただの推測に過ぎないのですが、大叔父様が持ち込んだ最初のインコであるという解釈も可能な気がします、が、答えのようなものは出ないので、この存在たちの解釈は他のかたの解釈に登場することを期待することとします。(※7/28日加筆修正部分)

 

 インコ大王は捕らえたヒミを大叔父様の元へと連れてゆきます。外部の人間を産屋まで連れてきて侵入させたその罰を与えるためですが、とりあえず、ヒミは大叔父様の子孫であってその罰はどうやら不問とされます。(この辺の記憶は曖昧です)

 もしかしたら、眞人を大叔父様の元まで連れてくるための餌のようなものとして考えているかも知れません。どちらにせよ大叔父様自体は眞人やヒミに特別罰のようなものを与える気はありません。

 インコ大王が与えてくる困難をアオサギと協力して乗り越えながら、やがて彼は大叔父様の元へと辿り着きます。

 そこで彼は大叔父様という存在が「この塔を平和に成立させるための調律役のような者」であることを知ります。その手段は無垢なる石を用いた積み木を、崩れないように何度も何度もずっとずっと組み替えながら組み上げること。大叔父様はこの大役を眞人に継いでもらいたいと彼に告げます。

 

 しかし、石を何度も何度も永遠に積み上げるって、賽の河原の石積みやん。まあ大叔父様は大きな仕事で資格ある者にしか任せられないように言っておりますが、実際のところ、大叔父様の命がもう尽きてゆくとしても、眞人に与えようとしている役割は賽の河原の石積みそのもの、「親より先に亡くなった子どもに与えられる罰」です。

 

 ということで、塔の世界について考える必要があります。

 この場所は隕石の落下によって生まれて、この場所を屋敷の脇に見つけて塔の形にした大叔父様の手によって日々調律されています。そして大叔父様は常人より長い時間をここで生きていると推測されます。しかし、どうやら不老でも不死でもないというのが考えを難しくさせます。大叔父様が不老不死であればここはシンプルに隕石の落下によって生まれた、ひとの近くにある「死後の世界」みたいに捉えられるのですがそうではありません。そして、眞人やヒミのように違う時間軸から訪れた人間を同じ時間で過ごさせることのできる器のような場所でもあります。この塔には各々違う時間に出入りすることのできる時の回廊が存在します。

 となるとここはひとつのタイムトラベルが可能なその分岐点としても使えるかも知れないのですが、眞人とヒミがインコに追われ一度扉の無効に避難した際の口ぶりを見るとどうやら適切な時間軸のドアから出入りしないといけないルールはありそうです。

 ということで、ポエミーに解釈してお茶を濁すと、この場所は時間というルールから大きく解き放たれた特殊な場所「時の揺籃」とでも言えるかも知れませんし、大叔父様の役割は賽の河原の石積みですが決して、この場所自体は彼岸ではなく三途の川そのものなのかも知れません。もしかすると輪廻転生を司る場所なのかも。だから塔の下の世界からには強い「死」のモチーフが多くあり、その割に中心部には新たな生命を育むための産屋は存在する、という。

 だとして、此岸で生きることを拒んだ人間だけに、恐らく塔の世界を調律する資格があるのでしょう。

 

 ということで、眞人は大叔父様から役割の継承を請われますが、はっきりと断ります。このあたりの対話で、眞人にとって自身が頭につけた傷を「悪意」と称し、「人間の世界でアオサギのような友人を見つけて生きていく」と答えます。

 この「悪意」自体をどう解釈するかは余地がありますが、眞人にとってそれこそ様々な意味があって、そのなかでも特に人間としてのしがらみをそう呼んだのではないでしょうか。

 大叔父様と継承の対話に決着をつける頃の眞人には、もう塔に入った頃の厭世的な部分はありませんし、自身が拒んでいた「ナツコさんを母と認める」ことも「母がこれから産む子を疎む」こともありません。なんならヒミ(後の実母)との出会いや同行を重ねることで、「亡き母をそうとして受け入れる」そこまでの体験を行っているのです。

 だからこそ本当に、眞人が継承を拒んで塔から帰ることはもう当たり前の答えとして、大叔父様に告げることができるのです。

 眞人にとっての「どう生きるか?」はここまでで回答が出ています。

 

 けれども、眞人の回答やそれを受け入れた大叔父様に不満を持ったインコ大王は、適当に積み木の積み、しかしながら世界を継続させようとします。不満は当然でしょう、自分が生きる世界、ましてや王として君臨することのできる世界が崩壊に瀕しているのですから。結果的にインコ大王にはこの塔の世界を成立させるための石積みは出来ませんでしたし、塔の世界の崩壊は始まります。

 

 眞人とアオサギは時の回廊に向かい、そこでヒミとナツコさん、そしてキリコさんとも合流します。そうして眞人はヒミを連れて、彼の時間軸に戻る扉から脱出しようと問います。現在はまだそうではないとしても、眞人の母であり、彼女が戦火に焼かれる未来を知っているのですから。

 しかし、ヒミはそれを拒み、眞人は「戻った母さんはのちに戦火で死ぬ」といったようなこと(記憶が曖昧ですが、眞人にとってのヒミが母であることと、やがて戦火で亡くなること自体)を述べます。その言葉にもヒミは明るく、「いいじゃないか、眞人のような子を産み育てたならその死は幸せだったのだろう」というようなことを答え、そうして、正しい時間へと彼らは帰っていきます。

 ヒミ(ひさこ)にとっての「どう生きるか?」にもここで答えが出ていたのかも知れません。

 132番の扉からインコやペリカンたちとともに出てきた眞人とナツコさんの目の前には、彼らを捜索するために必死な姿の父がいます。塔の世界で姿を変えたものは本来の人間世界での姿に戻り、眞人やアオサギはそのままの姿で戻ってきます。脱出した眞人が塔での記憶を持って話すことに驚いたアオサギは「塔の世界の記憶は持ち帰ることが出来ない。塔の世界で重要なものを持ち帰らない限り」的なことを言います。

 はてさて、眞人には手癖の悪さが伏線として張られていますが、大叔父様とのこの対話を行うための道すがら、あたりに転がっていた塔の積み木と同じ素材である無垢なる石をひとつ手にしていましたし、そしてキリコさんの部屋でもキリコさんの人形をくすねていました。

 塔でくすねたものを見せた彼にアオサギは呆れもしますが、「お別れだぜ、友だち」というようなことを言って眞人と別れます。そうして眞人のポケットから人形の姿から解き放たれたキリコ婆さんが出てきて、ナツコさんと眞人と共に屋敷へと戻っていきます。

 

―大叔父様とアオサギは結局なんだったのか(※7/28加筆修正部分)

 大叔父様については、視聴者である自分たちが解釈する以前に、使用人のばあやたちの話自体でもその実体が揺らいでいたような気がします。「塔の世界に恐らくルールを持ち込んだ人物(元は隕石の落下によって生まれた不思議な場所、だったものに、海の世界やヒミの家のような一種秩序立った、ひとの生きる場所を構成している)」「塔の世界を平和に保つ」、「そのために生きながらえながら、役割のように積み木の塔を積み続けている」というのが視聴者としての自分たちに与えられた情報であります。大叔父様という言葉をまっすぐに捉えるのであれば、眞人やヒミ(ヒサコ)、ナツコさんの親族ということになりますが、そのことについても、たとえば眞人とヒミやナツコさん同士の互いの認識による承認のような、証拠めいた言及がなかったりします。

 だからといって、そこを深掘りして解釈が進められるということではありません。より謎が深まりしそうなので、あくまで親族として考えます。そしてただ、彼は作中誰よりも孤独であったことは推測できます。おもちゃ箱のような塔の世界を作ったのは、また、塔の世界を調律するルールを行う(というかそこに役目を与えたことまで)、ただ、厭世的だったかも知れず誰より先にこの世界に足を踏み入れた彼が孤独な時間を埋めるためのものだったかも知れません。誰より孤独な人物のメタファー、それが大叔父様という存在、なのかも。

 それからアオサギです。眞人を騙すように塔に導きながら、大叔父様の指示を受けてからは眞人とともに塔の世界での冒険を繰り広げ、少しずつ互いを理解していきながら、最終的には眞人から友人と呼ばれる存在にすらなります。

 イメージボードに彼の姿があるほどの重要なキャラクターでもあり、この物語の副主人公と呼べるかも知れません。とはいってもアオサギはこの眞人との冒険に全て同行していたわけではありません。常にいるようで、場面場面で彼の存在は消えているのです。(記憶が間違いでなければ)大叔父様から「ナツコさんを連れ帰る」ための言いつけを眞人とともに受けたはずですが、最初に眞人が落ちた海の世界では彼の姿はありません。同様に、キリコさんの家を出るときに彼はまたいっしょに同行することになるはずですが、ヒミの家では彼の存在が消えていたりします。その代わりにインコに捕らえられて眞人がピンチに陥った際にはすぐに駆けつけたり、インコ大王たちがヒミを連れていく際には眞人ともにしっかり協力して冒険の供となります。

 眞人にとって相当に都合がいい存在ではないですか?

 眞人が屋敷にたどり着いときにまずいちばん最初に彼に近づいてきた存在であり、その頃からアオサギは決して「眞人に襲いかかる存在」ではないのです。屋敷にやってきた眞人に興味を持って近づき、眞人が現実世界を疎んだ頃、彼は仮想敵として都合よく眞人の冒険に付き合ってくれます。また「眞人の母親(ヒサコ)が塔にいる」という言葉で眞人を騙したりして結果的に塔へと眞人を導きはしますが、その行動を選ぶ主導権については基本的には眞人が持っています。アオサギにとって弱点となる彼の羽根を眞人が持っていても、それを奪い返そうという行動を取らないのです。

 じゃあなにか、というとアオサギという存在は「誰よりも眞人が必要としていたもの」ではないでしょうか?

 大叔父様に対峙するまでの冒険を経た、眞人にとってあらゆる呼び方を彼に対してできたと思いますが、選ばれた答えは「友だち」となります。

 となると、この物語で眞人が必要としたものはどんなかたちでも自分に興味を持って冒険に付き合ってくれるような存在。アオサギはそれにぴったりだったとは思いますが、自分が主導権を持てる相手を「友だち」とするあたり、眞人はまだ友人関係の形成に不器用なのだろうなと思います。ちなみにアオサギが眞人のことを騙して近づいたあたり、友人関係形成の最初って嘘で興味を引くことも割とよくあることだよな、と思います。まあ、そんな感じでアオサギはいささか眞人に都合が良くはありますが、彼が呼んだとおり「友だち」、とそしてこれは穿った見方にもなるのですが、眞人が生み出した架空の「彼の必要とした者」という可能性もあるのだと思います。

 

 さて、物語にお話を戻しまして、塔から帰還して2年、戦争も終わった東京へ眞人たち一家は帰ってゆくこととなります。眞人と屋敷から出ていく彼の弟も恐らく2歳ほどの姿で。そうしてあっさりとこの物語は終わります。ジブリらしい水色のエンドロールが流れたあとには、おまけのシーンもありません。

 

 いやー、面白かったですね! と言うにはあまりにも演出的なエンタメめいたエンディングはありません。きっとそれは正しく「君たちはどう生きるか」という問いかける物語の終わりで、物語が綴じられたあとの時間は、この作品を受け止めた視聴者がその問いを考える時間なのでしょう。

 

・ぼくらはどう生きるか

 ここからは余談です。ただ筆者の「どう生きるか」について考える部分なので、作品考察を読みたかった読者の方にとっては不要なところになります。

 この作品を最初に見た自分は作品と、その問いについて整理をしかねました。実際、筆者は解釈不足だらけで、作品をまだ受け入れてなかったのでしょう。

 なんなら作中の色んな部分の解釈について、それから1週間後の2度目の視聴が与えたもの以上に、こうして感想や考察を書きながら行っていました。

君たちはどう生きるか」という問いかけへの答えは、この記事を書き始めた自分のなかにも備わっていません。

 塔でのあらゆる経験から彼にとっての今の世界と呼べるものを受け入れて、友を得て現実世界で生きることを選んだ眞人の姿は、筆者である自分にとって眩しいです。眩しすぎるほどです。

 自分自身の子どもを産み育てることの不安や、少なくとも塔に訪れる前の拒絶的な眞人と暮らす不安の整理を行ったであろうナツコさんの姿もまた眩しい。

 どちらも自分にはまだ憧れる姿です。

 筆者である自分にはまだ、多くの人間に支えられて生きていくことに必死で、ただ、人並みの暮らしとは言わないものの、生活のなかでなにか小さなものを得て、それを幸せとして暮らしていきたいと思うような感情があります。

 とすれば、ヒミが選んだ「自分の死を笑顔で受け入れられる姿」が自分にとっていちばん自分にとってどう生きていきたいかの姿になるのではないかと思います。

 この答えもまたきっと、『君たちはどう生きるか』という作品を2度観て、作品の考察記事を書いた頃の自分の答えで、やがてそれからもうしばらくののち、3度目の作品視聴をし、またそこから何かを得たら、その回答も変わっていくのでしょう。生きることを選びやめない限り、「君たちはどう生きるか?」という問いかけに対する答えは変わっていくものなのだろうと思います。それこそ、眞人や関わる登場人物たちが作品世界のなかで変わっていったとおり。

 

・筆者は感想をどう書き直すか

 これだけ字数をかけて考えながら記事を書いたらそりゃ、感想も変わるやろという話です。ぶっちゃけ作品を観た時間が2時間強、それを2回で約5時間。その倍以上の時間をかけてこの考察&感想記事を書きました。

 ということで長くはなりましたが、これまで作品に触れ続けたあとの『君たちはどう生きるか』という作品に対する感想です。

 アニメーションについては、キャッチーなモチーフの導入や派手な演出こそ行っておりませんが、作品冒頭の戦火から逃れるように駆ける眞人の姿、お屋敷の描写の細部や、塔の世界の背景美術、ワラワラが新たな命に向けて昇っていく感動的な姿、ヒミの家でのいわゆるジブリ飯、大叔父様の過ごすほとんど真っ白な部屋の美術、アオサギに限らずあらゆる多くのキャラクターたちが動く姿、膨大な数のインコたちが人間世界へ帰っていく瞬間の違和感なくシームレスに変化する動画などなど、その全てが現在観られる国内作品のアニメーションとしては最高クラスで、スタジオジブリ作品の持つ動画技術の髄が詰まったものとして、それに触れることは素晴らしく楽しいと思います。

 そして、この物語に関してですが、相当に解釈について頭を使い、行間を作品の中や外から探して自分なりの答えを導き出す、その行為自体がこの『君たちはどう生きるか』という作品の「ちょいとスロースターターで、派手さもなく、ポップでもない、けれども考える余地が様々なところに残されている眞人たちの行きて帰りし物語」の視聴体験以上にはちゃめちゃ楽しかったです。

 ということで感想をまとめると、スタジオジブリ宮崎駿のタッグだからこそ観られる最高のアニメーションと、決して派手ではないエンタメかつ哲学的な脚本に、おそらく創り手側から視聴者として与えられた、深い考察行為がめちゃくちゃ楽しめた作品」というのがこの『君たちはどう生きるか』という作品についての感想になります。

 

「君たちはどう感想を書くのか?」、感想を書き終えた自分はこの作品についてどういう感想が見られるかものすごく楽しみです。

 

 以上、この『君たちはどう生きるか』という作品についての考察感想記事を締めさせていただきたいと思います。

 願わくば、この映画を観てこの記事にたどり着いたかたが、作品を読み解きながら同じように楽しく感じられたら幸いですし、この記事に触れてなんらかそのかたなりの作品感想やそういったものを書くきっかけにでもなったら喜びこの上ないです。

 ここまでお付き合いいただいた読者のかた、マジでありがとうございます、あとダラダラ長くなってすまなんだ。

 では、また。