白日朝日のえーもぺーじ

ブログタイトルほどエモエモしくはありません

文章とはけ口

 某店長さんのブログを読んで思ったことを書き連ねる。内容としてはそんなにリンクしたり言及はしていないかと。

 

 ブログとかいうものを始めた頃から自分は全くといっていいほど、自分の文章で喋ることを苦手としている。

 ここからしばらく前提としての自分語りになるけど、そもそも俺が小説というか文章を書こうなんてことを考え始めたのは、小学校中学年頃、ミスチルの曲で替え歌をつくっていたあたりに端を発する。それがオリジナルの歌詞になり、フォーチュン・クエストを読んだ小学校高学年頃に歌詞では表現できないものを求めて小説もどきを書き始めたり、やがて中学生となりRPGツクールあたりが流行った頃にはかなり膨大な量の設定書を書くようになっていた。

 この頃は、純粋に文章を書きたいと考えるよりは「世界の表現」を求めていた頃で、実際のところ制作途中で挫折した様々なRPGや小説の中で、作中で登場するテキストの量が設定書のテキスト量を超えるということはまずほとんどなかったと思う。その設定書の文量に本文が追いつかないという傾向は現在も結構引きずっているのだけれど……(自傷ネタ)。

 とかくその頃の自分は、文章を書きたいと思う割に活字というのにほとんど触れないガキだった。中学生頃に読んだもので覚えているのはライトノベル坊っちゃんか官能小説か素人女性のエロ体験告白集くらいしかない。そんな自分でも、自分の考えた世界を具現すべしと設定を書き散らすことには人並みを超える執着を示した。いわゆる黒歴史ノートの産出量についてはその辺の自称中二病に負ける気はしないが、勝ったところで勝った気がしないのはどういうことだろう。

 さて、前提の話が長くなった。

 とりあえず自分について、文章を書くことが得意かどうかはさておき、ひとよりはそれを苦にしない人間であると自覚している。

 そんな自分の苦手科目が「日記」とか「ブログ」とか呼ばれるものだ。

「ブログや日記を面白おかしく書くこと」が苦手なのではなく、「日記を書くこと」がそもそも苦手なのだ。なにしろ自分には書くことがない。

 書くことのない人間が小説を志すとは面妖な話でござるなどとみる向きもあるだろうけど、ちょっとその辺を細かくいうと「日記に書くことがない」という話なのだ。別に、今日なにを食べてなにをやったか記してしまえといえば出来ないこともない。多少の脚色だったり体感に味つけして文章を上乗せするということも出来ないこともない。ただ、これは出来なくもないというだけであって、やりたくはないことだったりする。

 基本的に興味が無いことを書くというのができない、らしい。

 面白いもので、文章として書くぞという気持ちで書くとき、そういう自分の日常的な話をしてやろうという気がほとんど一切起きてこない。単純に今悩んでいることであるとか面白いと思っているものとかを文字にしたほうがよほど勢いのあるものになるのだ。

 こういう自分の側面に関しては、自分という人間が中身のない人物であるからという判断をくだしていた。視座のない人間であり、物事を考えようとしてもこれといって面白みのある結論や推察を行えない人間であるという考え。だから、今現在吸収しているものからスポンジを握るようにして中身の水分を搾り取るとまた、中身の無いスカスカした自分が出来上がるという寸法だ。だから、新しい小説の構想、読んだ本や観たアニメの感想なんかは書けても、自分のことについては基本的にカスっカスで書けないと。

 ただ、これについて最近は違う考え方をするようになってきている。

 元々、自分も大学時代あたりかなりのテキスト量があるメールなんかを一日多くて200通ペースでやりとりしていた。そこに書かれているのは歌詞だったり短編とも言えない短い小説だったりもしたが、一番多かったのはそれこそなんでもない自分のことだった。そして、自分が友人に長文メールをしなくなった時期とTwitterを始めた時期はリンクしている。こうやって考えると自分は「日記やブログを書くことそのもの」を苦手にしているのではなくて、そういった文章のはけ口が元々まったく違うものであったということなんじゃないかと思えてくるわけだ。

 現にTwitterをやめてからブログの更新は比較的増えているし、「こういうもの」も書いていい場所だと自分の中で定義すれば、案外、とりとめのない文章を残したりするタイプなのかもなあと思うようになった。

 元々、どちらにしても読み手のいない日記しか書かない自分ではあるが、「こういうもの」を書くとき、このブログが読者ゼロではないもののほとんどひとに読まれていないという事実は思った以上に自分の気持ちを楽にしてくれる。

 なんでもいいからなにかを書きたいとき、そういう場所があるのはしあわせで、きっとそれはなんでもいいからなにかを口にしたいとき、隣に聞いてくれる誰かがいるしあわせにすこしだけ似ているのだろうとか、そんなポエミーなことをちょっと、思う。

 ちなみに、こういう「日記が書けない」ネタで喋るのは前書いてたはてダやmixiなんかも含めて三〜四回目だ。いい加減前進しようぜ俺様ちゃん。なあ。

『ねらわれた学園』について

 原作もそこから派生するドラマ等についても詳しくない俺はアニオタとしてかくあるかといった具合に劇場アニメ版のそれを今更ながらに初めて観た。その開始十分ほどの感想がこれだ。(メモとった)

「劇場で、見てえ」

 正直な話、色々な部分でなめくさってたこともあり、開始数分は部屋で観るときも(40インチのテレビだけど媒体DVDだし)画面サイズも意識しねえくらい適当な見方をしてた。

 けれどすぐに、こりゃあ、煌々と光る明かりのもとで観るアニメじゃないと思い、部屋を暗くした。

 そうして観たこのアニメの第一印象は「やりすぎた新海アニメか」という質感だった。光源に対する反射に、プリズム的な色彩を持たせて美しく光を見せるその手法をもっと派手に見せるような作品だと思った。明かりを画面内から発する映画、だからこそ明かりのついた部屋で漫然と見るのはなんとも躊躇うわけである。

 こういう映像スタイルを用いたアニメーション作品は数あるが、その中でも手の込んだ部類に属するのが本作だと思う。変な言い方だが、派手な光の演出を一時間半以上やり切るというだけでも既にかなり大きな労力を使う作品であろうに、キャラクターの動きもかなり高いレベルでよく動く。アニメ映画としても結構上位のランクに入るくらいキャラクターは細かく多彩に生き生きと映像の中を動きまわる。この点についてはいちいち動くといってもいいくらい細かくて、またそういうところが個人的に好きだったりもする自分としてはなんともたまらない映像作品だった。

 シナリオについてはちょっとした不思議要素とミステリー的な不安の煽り方をしつつも割と単純な四角形の恋模様を描いていて、それが映像美と上手くマッチしていたかなという感じ。ちょっとお前女の子の気持ちに鈍感すぎんだろ―と言いたくなるような関くんですら可愛くみえるのは、映像美によるところもあっただろうなと。

 基本的にはある程度デウス・エクス・マキな筋書きなのでメインテーマに感心しつつもそれほど深く物語を読み解こうとしない方が楽しいのかなと個人的には思う。クドいくらいの映像美によって描き出される、ちょっと詩的にすぎるかもしれない四人の少年少女による切なくもかわいらしい恋物語に身を任せて観てみるのが個人的なオススメだ。

 アニメ映画は『おおかみこどもの雨と雪』以来だったが、『ねらわれた学園』もとても楽しめた。こちらの作品、ぜひとも青いえんばんを購入して大画面で観ていただきたい。

『ガタカ』について

 久しぶりに面白い映画を観た。

 誰に読ませるという意図もないサイトなので、映画の詳細を紹介するつもりはないけれど、技術進歩が近未来の社会に与える影響というビジョンを分かりやすく見せつつ、そこから作品主題へと絡める手際というか図式の提示の上手さが実にSF作品らしくてよかった。

 遺伝子によって決定論的に扱われるひとの優劣を超克して、「そこに辿りつくことは不可能」と言われ続けた未来へと辿りつく人間の話……というと難しそうな話に聞こえるのだが、いざ作品を見てみると驚くほどすんなり受け入れられる。ひとつひとつの設定やテーマが、きちんと選ばれたモチーフによって分かりやすく描かれていくのだ。

 たとえば、「『誰かの言う不可能』は不可能じゃない」という認識をヴィンセントに与えることとなる弟アントンとの度胸試しの遠泳も、土星(というか衛星のタイタン)に行きたいと願うヴィンセントの夢もそうだが、見ていて聞いていてとても分かりやすいもの。

 そして、その分かりやすさはキャラクター配置というかそれによって形づくられるテーマ図式にも見て取れる。

「ヴィンセントにとって遺伝子で語れば全く勝ち目のない弟」が超克すべきものとして最後まで立ちふさがってきたり、「成功を約束された遺伝子を持つはずが銀メダルしか獲ることが出来ず、自殺も上手くいかずに車椅子生活となったジェローム」が主人公に遺伝子情報を渡すと同時に彼の夢を受け取ったり、「ヴィンセントと同じく心臓に爆弾を抱えるガールフレンド」がヴィンセントを理解してくれたり、メインキャラクターの配置についてはほとんど一切無駄なく構成されている。

 そしてこの構成から描き出されるヴィンセントというひとりの男の物語は、宇宙に還る(別に死んではないが)という一種の祝福で閉じられることとなる。

 面白いのはヴィンセントの目的であり彼の属するガタカという組織の悲願でもあるタイタンへの航行について、驚くほどその中身が示されていないということだ。「タイタン」に行くことによって組織にとってなにがあるかとか、ヴィンセントにとってその場所自体がどういう意味を持つか、タイタンに行って具体的になにを行う予定であるか、そういうことが示されない。

「辿りつきたかった宇宙」というのはヴィンセントの目標そのものであるが、それ以外のものはなく、そこにあるのは遺伝子に支配された地球から離れたまっさらな未来であり、だからこそこの作品はタイタンに到着した彼の話で終幕としなかったのだろうか、などということを思う。

 彼の欲しがり続けた未来が、現在になる前に。

 

追記

 ジェローム(ユージーン)の最期に関してだが、ヴィンセントが夢を叶える姿に胸を打たれ、全てを託し、思い残すことがなくなったから死んだというような感傷的な話ではなく、優秀な彼の遺伝子が「この場合、足手まといとしかならない自分が死ぬ方が最良だ」と判断してしまい、その結果死を選ぶというシニカルな構図をとった可能性のほうが高そうだと作品を振り返りながら思った。