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『犬と魔法のファンタジー』感想、あるいは「自分であるということを選び取る」おはなし。

 今にして思うと、田中ロミオという作家は最初から優しかったのだと思う。

『家族計画(山田一名義)』ははじかれ者の人間が寄り集まって、重ね掛けしたような苦境と闘いながら自分の人生を選び取っていく話であったし、

CROSS†CHANNEL』は、人間ときちんと触れ合うことが難しい人間を隔離するように集めた、そんな学校でも随一の狂人とされる黒須太一が足掻いて踠いて、他人を傷つけることのない安寧の場を得る、という話であったかもしれない。

『AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~』は、普通に焦がれつつそうじゃないものにも憧れ続けた一郎と、普通のひとの世界を拒絶した良子、その両者が両者なりのやり方で足掻きながら、最後はハッピーエンドを与えられる話であった。

 育てられた環境であったり生まれ持った性質であったり、ただ単純に過去の経験であったり、そういうところに由来する「与えられたものが少なかった人間」に対して、実際のところはとても優しい視座を持っている作家なのだと思う。

 ……という気持ちに至ったのは、田中ロミオライトノベル作家として書いた最新作『犬と魔法のファンタジー』を読み終えたからである。さて、ここからは前置きの文章とは変わって本作品のネタバレが多くなることと思うので、未読者の方、特に近々この作品を読もうと考えている方には読まずにブラウザからタブをペッと消していただくことを推奨する。ディスプレイの前にいるあんたやあんたが読む前に思っている以上に面白いかもしれない、そんな作品のネタバレ踏んじゃったじゃんとか読んだあとに悔いないためである。人間が踏んでいいのはドMの頭と地面くらいのもので、キリストの絵が描かれた銅器とか、誰かに影響を与えるかもしれない創作物のネタバレではないってこと。これでも帰っていない慎重な読者の方はいないと思うので、そろそろ本題に入りますぞ。

 

 さて、この『犬と魔法のファンタジー』という小説は多分最も「見えやすい」形で田中ロミオ作品的な人間観の表出した物語であると思う。

 この作品は要約すると「ファンタジー世界で、実に現代的リアリティのある就活に疲弊していく不器用な人間たちが、足掻いたり涙しながら不器用なりの生き方を選ぶ」そんなお話である。

 そんなお話であるせいなのか、主人公とそれに並ぶメインキャラクターともいえるふたり、「チタン骨砕」と「ヨミカ来倉」にはびっくりするほどカリカチュアライズされたキャラクター描写が少ない。佐藤一郎が中二心をくすぐるワードやシチュエーションに対してやけに饒舌になったり、河原末莉が家事を頑張りすぎて倒れるといったようなシーンもない。ごく普通の出会いをしたといえる人間同士が、これといった決定打もなく反目しあったり、これといった好意も見出さず行動を共にしたりする。ぶっちゃけて言うと、チタンとヨミカの物語として捉えるには本当に淡々としたものであり、何なら恋愛ものと口にするのも紹介文としては憚られる。

 ただそれでも、俺はこの作品がひどく好きであり、チタンとヨミカの関係を描く物語という側面でも好きだ。この、本当に何気ないところから立ち上がるような人間関係の描写というのが狂おしいほどに効いている、と個人的に感じてしまうからだ。

 まあでもそれは俺の好きな創作物がなんであるかという話に方向性に寄り過ぎているのでこの話は一旦置いておくことにしよう。話は脇道にいっぱい逸れているが、俺が語りたいのは「この作品、とても面白かったよな」ということである。

 既読者であれば作品への好悪あれどきっとご存知のことであるとは思うが、この作品の序盤、「ファンタジー世界でリアルな就活をやっている」という描写に対して、本当に細かく手間と時間をかけて周到に行っている。正直に申し上げると、序盤を読んでいるときの自分は「そんな面倒くさい手続き踏むほどの取れ高あるの?」くらいのことを思っていたし、あまりプラスには捉えていなかった。まあ、ファンタジーで就活ってのは題材としてはまあまあ新鮮かもね、というようなエラそうな視点で見ていたわけである。ロミオ信者だって刺さる作品の供給量が減るとたまにはロミオにエラそうな顔する、本作ではさっくりそんな自分の隙を突かれたわけだ。

 しかし、「ファンタジー世界でリアルな就活をする」というのは、物語の軸ではあれど主題に直接足を突っ込むものではない。その先にあるものは「ひとはどういう生きかたを選び、肯定するのか」ということである。

 この作品にAURAめかした一種の英雄譚のような浮足立ったようなハッピーエンドは存在しない。その世界に於いて不器用な生き方をしているとしか言えない人間が、自分なりの回答を出して不器用な生き方を選び取る……ただそれだけの物語であり、それがこの作品の田中ロミオ作品としての特異性のひとつであると思う。

 田中ロミオ作品を「足掻くはじかれ者に優しい物語」であるとはこれまでもどこかで思っていたが、この作品はやや性質が異なっている。

 チタンは「狂人が」とか「社会に適合しなかったものが」とか「クラスに馴染めなかったものが」とかそれほど極端な人間ではない。友人もいたり簡単に慰めあえる人間もいたり、ついでに言えば学歴もまずまずだ。まあひとつ上手くやれれば良い人生を過ごせているかもしれない人間であり、ある程度は「与えらえた」主人公でもあった。それでも上手くいかないことだってある。そういうところのありふれた絶望に、他人が見落としそうな恐怖に足を踏み入れるよう描かれている。

 ただ、だからといって、主人公であるチタンが就活に苦しみ喘いでいる描写をそれほど好意的にもコメディ的にも描かない。当たり前のように企業から祈られて、当たり前のように落ち込んで、時には絶望して反目している人間に自分の過去を吐露するほどどうしようもないメンタルに陥ったりする。

 同情するように描かれているように見えるが、優しい目で主人公に同情しているようにも見えるが、別に目に見えて苦境に足掻きまくっている彼らに「完全無欠のハッピーエンド」が与えられるわけではない。あくまでも、「確定的に普通になれなくて、どうしようもなく不器用で、それでも何らかの形で生きていかなければならない」そんな人間が「ほぼひとつに限られた選択肢を肯定的に選び取り、その道を登攀するように生きることを決める」というお話だ。

 突き放している、と心のどこかで思う。

 突き放してくれ、と心のどこかで思う。

 この作品はハッピーエンドでもバッドエンドでもなく、チタンが選びとった生き方に肯定的な素振りも否定的な素振りも見せない。

 ただ、その生き方をチタン自身は肯定をしている。それが「たぶん。俺をやっているだけ」と言う彼自身の生きる価値であるように締めくくられるのだ。

 作品として用意された主人公への祝福の場はいらない。

 道を選び取った自己に肯定できる自分が、その道を攀じていける自分がいればそれで良い。

 というような突き放しが驚くほど心に刺さる、そんな物語であったと思う。