一話を観たあとにかなり批判的な態度をとっている日記がmixiにあるのだけれど、三話まで観た段階からほとんど無抵抗なぐらい作品にタコ殴られながらの視聴になっている俺がいるので、その辺は一旦保留しておいて、機会があればあとで言葉として整理しようと思います。
さておき、四話です。
卯月、凛、未央の三人に「シンデレラプロジェクトの自己PR動画」を撮ってきてもらうという内容の回 でした。この回の冒頭の時点で「あ、俺負けたー」くらいのことを思うくらいには、完璧にハマるアイデア持ってきたなと感じたわけです。
なぜかというと、このアニメって三話までひとつの回ごとに違ったベクトルの登場人物たちを(一話ごとに別けてという意味じゃないですが)描いているわけですね。
例えば一話で、まだアイドルとしてのスタート地点にも立っていなかった卯月やアイドルになろうという考えを持っていなかった凛、二話で未央やそ の他のプロジェクト・メンバーと出会い、アイドルとしてのスタート地点に立ったふたり、三話でやるべき仕事が入りアイドルとしての階段を登りはじめた「お しごとの顔」込みでの卯月、凛、未央の三人だったり、三話ではその一方でみくさんを含めたメンバーたちのアイドルをやることに対する意識も描いていく。
そういうひとつひとつは物語として当たり前に描かれるものであるべきっちゃべきなんですが、本来は主役級のキャラごく少数にだけ特権的に描かれ るもので、この登場人物の多さにしてこれを丁寧にやっていくというのは本当に難しいことだと思います。キャラクターを描くというのは場合によって物語のダ イナミズムを停滞させることだってありますし、本来ならこの人物描写をさばいていくのに十話くらいかかっていても仕方がないかなあと感じるほどです。
そこでこの四話ですよね。
卯月、凛、未央の三人でメンバーたちのPR動画を撮るというこれ。
これ一話なり二話段階でやるとただのキャラクター紹介という印象しか与えなかったと思います。
それが四話に来る。
三人はこれまでにいくらかの経験を積み、同時に他のメンバーたちとの関係性もできてきつつあるタイミングです。この四話のアイデアにおける 「キャラクター紹介」であるという性質は変わりませんが、この場でのキャラクター紹介には一度、複数のキャラクター間での関係が導入され直します。
その例としていちばん分かりやすいのが、三話でも比較的多く三人と絡んできたみくさんの描写ですね。登場してすぐカメラを向けられて「アイドル としての外面と、身内に向ける油断顔」みたいなものを見せてみたり、三人が年少組のふたりを撮影するレッスン室で年少組に向ける「教育係的な顔」だった り、一気に多層的になるんですよね。結局、みくさんは本人の言うとおり真面目にレッスンするため部屋に来たわけで、面白そうだからってレッスン放っておい て三人について行ったりとかしないわけです。それでも、カメラが回っている場所では出来るだけよく映ろうとする姿とか、ぽつりと口にする悔しさのセリフと かもう真面目だからとかどうとか以上に見ていてキャラクターが駆動している感じで興奮してくる何かがあります。
閑話休題、年少組というものの莉嘉とみりあの組み合わせにしてもどういうキャラクターであるかだけじゃなく、互いに対してどういう振る舞いをするかで像が補強されていますし、二話でも印象的だった杏ときらりの凸と凹な組み合わせにしても同じように補強されてますよね。
それから李衣菜であったり蘭子は単独での登場になりますが、そこには卯月たちとの距離間など(蘭子に関してはメッセージの読み取り手としての美波であったり)で結局、複数の顔を見せたり匂わせたりしているんですよね。
そして、卯月たち三人自体がひとりひとりを見る目線というのもきちんと用意されていて、ここまで見て結果的にすごく多彩な視点でキャラクターを見ていくことができる。
最初はプロデューサー目線と卯月や凛による目線(もしくは単純に受け手そのものの完全な主観)のみだったものが、一気に見方が広がっていくと。
かわいい女の子単体を見ていたいひとにも、キャラクターをカップリングして楽しみたいひとにも、キャラクターが成長していく物語を眺めたいひと にも、誰か特定個人に強く感情移入していきたいひとにも届いていくようなキャラクター導入をここまででやっている。これは本当に見事だしすごい。
そういう意味でも、卯月たちの撮影した動画を見てくすりと笑うプロデューサーの背中を仕上げに描写したのは本当に感嘆するレベルでした。
アニメーションとしての出来も個人的な作品そのものへの興味も、キャラクターへの興味(個人的にはみくさんかわいい)も、物語として見ていて学ぶところが多い嬉しさも引っ張って来られてしまい、本気で見逃せないアニメになっていて今後がすごく楽しみです。
『ちょびっツ』を観ている
原作、アニメ版ともに開始されてから十年以上経っているという今さらではありますが、『ちょびっツ』のアニメ版を視聴開始しました。
以前から近所のレンタルショップに置いていないか探してはいたのですが、見つからなかったので今回は潔くGYAOに課金しています。現代って良いですよね、わざわざ出かけて探さなくても古いアニメを見れたりするんだぜ。現代万歳。
一話から六話まで、七話から十一話までとを購入していますが話数×80円+税だそうです。
現在、九話くらいまで観ているところでまず一番最初に出てくる感想は「ちぃやばい、やばいって」ってことです。おおむね作品発表当時の現代を意識した世界観に、「PC」と呼ばれる人型のパソコン(見た目と手触りは人間そのもの、機能的には人間のように動いて喋るコンピューター本体ともいえる機械)が人間のために働いたり、ともに暮らしているというような設定だそうで、田舎から出てきて都会の予備校へと通うことになった主人公はひょんなことからゴミ捨て場に放置されていた少女型のPCを拾ってしまうという流れです。
この時点で個人的にはなかなかにエグい設定ではあると思うのですが、なんというか、作品全体に漂うある種の道徳観みたいなもののラインが、序盤のほんわかした作風から考えるとかなりギリギリに設定してあるように思います。
PCをほとんど人間として扱っているような人間もいれば、自律的に動いてくれる便利なデバイス程度として扱っている人間もいて、またこの作品の主人公である本須和秀樹のようにかわいい(この表現が微妙でめんどうくさいのですが)女の子として扱っているというように、この作品に登場する個々人でPCという存在への対応が違っているというのが提示されていたりもします。
少女型のパソコンを所有するということは、見た目上だと少女を所有することとほとんど変わらず、秀樹によってちぃと名付けられた少女型PCも、最初はほとんどのデータがないため鳴き声のように「ちぃ」と言うだけしかできませんが、学習ソフトが搭載されているため物語が進むにつれて少しずつ言葉を覚えてゆき、意思の疎通もそれなりにできるようになります。
話がそこまできてつい思ってしまうのは、「これ、事実上ほぼ人間じゃん」ということです。もちろん、機械であるという設定の部分で見た目が成長することはないとか、寿命というのが長くも短くも人間と変わるというのはあるのですが、序盤でのちぃは描写として多くの部分が「見た目が少女で、幼児のように知識を持たない生きもの」です。だからちぃは学習するためにひとつひとつ秀樹の行為を真似したり、秀樹の言葉ひとつひとつを反芻するのですが、その描写が非常にかわいい。むやみやたらに演出的なかわいい描写があるのではなく、言葉にした通りのことをちぃが行動するだけですが、そういうのが無茶苦茶かわいいんですね。ちぃが新しい言葉を覚える、ちぃが新しい振る舞いを覚える、その中でちぃが無邪気に秀樹に抱きついていくみたいなとてもプリミティブな秀樹に対する好意を素直に見せる……その全てが本当にかわいらしい。創作者目線みたいなところで言うとこれ、「むっちゃ卑怯じゃん、こんな愛玩吸引機みたいな設定ずるいよ」みたいな感じなんですが、絶妙に設定がエグいです。
例えば、ちぃの起動スイッチにあたる部分、それは作品中だと女性器にあたる部分と表現されています。だからこそ、少なからず、何も知らない人間が「ちぃ」を起動しようとした場合、そういう部分まで触れてしまう人間にしか反応しないという、ある種のモラルみたいな線をちょっと乗り越えてからの好意の描写に向かっているんですよね。
だからこそ、ちぃをただかわいくてあざとい設定のヒロインというような距離を置いては感じられず、SF的ともいえる、物語によるifを内包して受け手に迫るようなヒロイン像としても感じられるわけですね。自分が受け手として逃れられず、しかもかわいい。こういう女の子はそりゃやばい、というのがここまでの印象ですね。
なんつうか、ちぃの描写は序盤段階だと女の子というかわいさよりも、秀樹が家に帰ってきたらまず喜ぶような鳴き声上げて抱きつくっていう、よく懐くペットの犬や猫みたいな愛玩動物の振る舞いなんですよね。そういう振る舞いのちぃをそのまま「すげえかわいい」って言い切ってしまう秀樹って相当に歪んでいるか、ちぃを田舎の牧場と同じ動物レベルとして愛しているかの二択だと思うし、ここまでの様子を見るに、ちぃの姿から年頃の女の子像はかなり強めに感じている(ちぃが裸のような格好をすることに慌てたり焦ったりしてしまう)ようですし、まあ前者に近いんじゃないかと。そういうのってどうかと思うんですけれど、まあ俺もこういう生きものすげえかわいいと思っちゃうんで、正直、真っ向から批判できる気しないんです。
まあ色々な気持ちもあって、ちぃの存在はエグいしかわいいと思う気持ちがほんとうに強いですが、序盤の段階で歪んだクソ童貞としか思えない男子を主人公にするのってすげえ英断だなあと思いました。
ちぃ、かわいい。ちぃ、おぼえた。
二次元のいきものをかわいいと思う瞬間のはなし
一昨日はたいようのいえ最新巻を読んでいた。相変わらず真魚のかわいさだけでご飯三杯余裕でいける内容で、くはー、とか意味の分からない奇声をあげながらベッドの上で転げるような状態に運ばれてしまった。
昨日は青い花の最終巻とタカハシマコのスズラン手帖を読んでいた。とても面白かったのだけれど、面白さの形容ではなくそのままの意味で全身がかゆくてしにたくなっていた。かゆみと神経にクる系の痛みは拷問レベルで取り扱うことが可能なんだなってことをまた文字通り肌で感じた。それはともかく、ふみちゃんがすぐ泣くので読んでいるぼくもたいへんです。
さて、今日の自分はアニメや漫画、エロゲにこれといったこだわりを持って接しているわけではない。十年前くらいだと「エロゲっていうか、シナリオが秀逸な作品に興味があるってだけ」みたいに言ってたはずなのだけど、面白いと感じればバトルものでも恋愛ものでもオカルトにミステリー問わずに触れてしまう。恋愛ものでも女の子ばかりが出てくる作品中心に触れてはいるものの、たいようのいえを好きと言っているように、男女の恋愛ものだったり別に男同士の恋愛話でもそれだけで避けるということはまずない。
ただ、どうせ観るなら「かわいい」と思える登場人物の出てくる創作がいいらしく、恋愛要素の少ない作品に触れることはあまりない。
さて、この「かわいい」についてだけれど、自分が創作で「かわいい」と思っている感覚を他の誰かとあまり共有したことがない。創作に対する距離のとり方のひとつとしてなのか、なんとなくこういう気持ちについて身近なひとと話すことを避けているところがある。
とはいえ、「自分の思うかわいさの他のひととのズレ」みたいなものが気になるとそこに興味が沸いてくるもので、職場のアニメ好きの先輩との会話中、話の流れがこういう「二次元キャラのかわいさ」みたいなところに辿り着いたため、このあたりについて質問をしてみた。
「二次元の女の子がかわいいと思う瞬間ってどういうタイミングですか?」 これに先輩は、
「好きになってたら、登場するだけでかわいい」
「笑顔を見せているとかわいい」
「けいおんの憂ちゃんとかだと、お姉ちゃん自慢しているときがかわいい」
というような回答を返した。
ちなみにこの先輩は割と三次元の住人なので、二次元の女の子を「かわいい」と感じても、それは赤面したり気恥ずかしくなって画面から目を背けるみたいなレベルまでいくこともなく、画面に向かい「ほぅ……かわいいやん……」と呟くくらいだそうだ。このあたりは、「うわー、かわいくて死ぬ―」みたいなことを言って画面や漫画を真正面から見れなくなる自分とは違うけれども、納得のいく部分も結構ある。
特に「登場するだけでかわいい」なんていう状態は、一度発生してしまうとその物語が終わってしまってすらその娘をかわいいと思う気持ちが抜けていかなかったりする。
ただ、もっと気になったのは3つ目のところ。
「憂ちゃんが姉自慢しているときのかわいさ」についてだ。
ここに自分がキャラクターをかわいいと思う瞬間に最も近いものを感じた。
自分は、けいおんの秋山澪が好きだとしきりに口にするのだけど、じゃあどういう風に澪のことが好きだと考えているのかというと、一言で表現するには難しい話になる。容姿だけでいえば、純ちゃんに唯、あずにゃんあたりの方がよっぽど好きだし、良くない喩えではあるけれどこれがエロゲならあずにゃんあたりを気に入って、攻略を後回しにするみたいなことをやりかねない。
そんな中で、秋山澪をかわいいと思うのは、単純に性格が良いとか見た目がかわいいからというより、あのキャラクターを構成する色んな要素がすごく整っているからだと思う。内弁慶な態度、心の許し方、趣味や、相手によって変わる会話の雰囲気、その他諸々の感じが、なんか秋山澪という女の子の「理路」を通しているようにみえるわけだ。
理路が通っているということは、そのキャラクターについて納得しやすくなる。
そういう納得する瞬間、そのキャラクターを理解させられる瞬間、「そうそう、この女の子はそういうことをするんだ!」と思わせられる瞬間に、自分は彼女たちのことを好きになったりしやすいのだと考える。
キャラクターたちが物事に対して無意識的にでもどういう優先順位をつけて行動しているか、そのキャラクターにとっての突き通したいわがままは何であるか、またそれは彼(彼女)にとってどういう価値観醸成から生まれ出た気持ちであるか、あとはキャラクターたちがただ持っている些細なクセと気持ちの関係とか、実際のところは何でもいい。
そういう「理路の発露」みたいなところに、自分のいわゆる「萌え」の根幹はあるのかなあとかそんなことを思った。
文章とはけ口
某店長さんのブログを読んで思ったことを書き連ねる。内容としてはそんなにリンクしたり言及はしていないかと。
ブログとかいうものを始めた頃から自分は全くといっていいほど、自分の文章で喋ることを苦手としている。
ここからしばらく前提としての自分語りになるけど、そもそも俺が小説というか文章を書こうなんてことを考え始めたのは、小学校中学年頃、ミスチルの曲で替え歌をつくっていたあたりに端を発する。それがオリジナルの歌詞になり、フォーチュン・クエストを読んだ小学校高学年頃に歌詞では表現できないものを求めて小説もどきを書き始めたり、やがて中学生となりRPGツクールあたりが流行った頃にはかなり膨大な量の設定書を書くようになっていた。
この頃は、純粋に文章を書きたいと考えるよりは「世界の表現」を求めていた頃で、実際のところ制作途中で挫折した様々なRPGや小説の中で、作中で登場するテキストの量が設定書のテキスト量を超えるということはまずほとんどなかったと思う。その設定書の文量に本文が追いつかないという傾向は現在も結構引きずっているのだけれど……(自傷ネタ)。
とかくその頃の自分は、文章を書きたいと思う割に活字というのにほとんど触れないガキだった。中学生頃に読んだもので覚えているのはライトノベルか坊っちゃんか官能小説か素人女性のエロ体験告白集くらいしかない。そんな自分でも、自分の考えた世界を具現すべしと設定を書き散らすことには人並みを超える執着を示した。いわゆる黒歴史ノートの産出量についてはその辺の自称中二病に負ける気はしないが、勝ったところで勝った気がしないのはどういうことだろう。
さて、前提の話が長くなった。
とりあえず自分について、文章を書くことが得意かどうかはさておき、ひとよりはそれを苦にしない人間であると自覚している。
そんな自分の苦手科目が「日記」とか「ブログ」とか呼ばれるものだ。
「ブログや日記を面白おかしく書くこと」が苦手なのではなく、「日記を書くこと」がそもそも苦手なのだ。なにしろ自分には書くことがない。
書くことのない人間が小説を志すとは面妖な話でござるなどとみる向きもあるだろうけど、ちょっとその辺を細かくいうと「日記に書くことがない」という話なのだ。別に、今日なにを食べてなにをやったか記してしまえといえば出来ないこともない。多少の脚色だったり体感に味つけして文章を上乗せするということも出来ないこともない。ただ、これは出来なくもないというだけであって、やりたくはないことだったりする。
基本的に興味が無いことを書くというのができない、らしい。
面白いもので、文章として書くぞという気持ちで書くとき、そういう自分の日常的な話をしてやろうという気がほとんど一切起きてこない。単純に今悩んでいることであるとか面白いと思っているものとかを文字にしたほうがよほど勢いのあるものになるのだ。
こういう自分の側面に関しては、自分という人間が中身のない人物であるからという判断をくだしていた。視座のない人間であり、物事を考えようとしてもこれといって面白みのある結論や推察を行えない人間であるという考え。だから、今現在吸収しているものからスポンジを握るようにして中身の水分を搾り取るとまた、中身の無いスカスカした自分が出来上がるという寸法だ。だから、新しい小説の構想、読んだ本や観たアニメの感想なんかは書けても、自分のことについては基本的にカスっカスで書けないと。
ただ、これについて最近は違う考え方をするようになってきている。
元々、自分も大学時代あたりかなりのテキスト量があるメールなんかを一日多くて200通ペースでやりとりしていた。そこに書かれているのは歌詞だったり短編とも言えない短い小説だったりもしたが、一番多かったのはそれこそなんでもない自分のことだった。そして、自分が友人に長文メールをしなくなった時期とTwitterを始めた時期はリンクしている。こうやって考えると自分は「日記やブログを書くことそのもの」を苦手にしているのではなくて、そういった文章のはけ口が元々まったく違うものであったということなんじゃないかと思えてくるわけだ。
現にTwitterをやめてからブログの更新は比較的増えているし、「こういうもの」も書いていい場所だと自分の中で定義すれば、案外、とりとめのない文章を残したりするタイプなのかもなあと思うようになった。
元々、どちらにしても読み手のいない日記しか書かない自分ではあるが、「こういうもの」を書くとき、このブログが読者ゼロではないもののほとんどひとに読まれていないという事実は思った以上に自分の気持ちを楽にしてくれる。
なんでもいいからなにかを書きたいとき、そういう場所があるのはしあわせで、きっとそれはなんでもいいからなにかを口にしたいとき、隣に聞いてくれる誰かがいるしあわせにすこしだけ似ているのだろうとか、そんなポエミーなことをちょっと、思う。
ちなみに、こういう「日記が書けない」ネタで喋るのは前書いてたはてダやmixiなんかも含めて三〜四回目だ。いい加減前進しようぜ俺様ちゃん。なあ。
『ねらわれた学園』について
原作もそこから派生するドラマ等についても詳しくない俺はアニオタとしてかくあるかといった具合に劇場アニメ版のそれを今更ながらに初めて観た。その開始十分ほどの感想がこれだ。(メモとった)
「劇場で、見てえ」
正直な話、色々な部分でなめくさってたこともあり、開始数分は部屋で観るときも(40インチのテレビだけど媒体DVDだし)画面サイズも意識しねえくらい適当な見方をしてた。
けれどすぐに、こりゃあ、煌々と光る明かりのもとで観るアニメじゃないと思い、部屋を暗くした。
そうして観たこのアニメの第一印象は「やりすぎた新海アニメか」という質感だった。光源に対する反射に、プリズム的な色彩を持たせて美しく光を見せるその手法をもっと派手に見せるような作品だと思った。明かりを画面内から発する映画、だからこそ明かりのついた部屋で漫然と見るのはなんとも躊躇うわけである。
こういう映像スタイルを用いたアニメーション作品は数あるが、その中でも手の込んだ部類に属するのが本作だと思う。変な言い方だが、派手な光の演出を一時間半以上やり切るというだけでも既にかなり大きな労力を使う作品であろうに、キャラクターの動きもかなり高いレベルでよく動く。アニメ映画としても結構上位のランクに入るくらいキャラクターは細かく多彩に生き生きと映像の中を動きまわる。この点についてはいちいち動くといってもいいくらい細かくて、またそういうところが個人的に好きだったりもする自分としてはなんともたまらない映像作品だった。
シナリオについてはちょっとした不思議要素とミステリー的な不安の煽り方をしつつも割と単純な四角形の恋模様を描いていて、それが映像美と上手くマッチしていたかなという感じ。ちょっとお前女の子の気持ちに鈍感すぎんだろ―と言いたくなるような関くんですら可愛くみえるのは、映像美によるところもあっただろうなと。
基本的にはある程度デウス・エクス・マキな筋書きなのでメインテーマに感心しつつもそれほど深く物語を読み解こうとしない方が楽しいのかなと個人的には思う。クドいくらいの映像美によって描き出される、ちょっと詩的にすぎるかもしれない四人の少年少女による切なくもかわいらしい恋物語に身を任せて観てみるのが個人的なオススメだ。
アニメ映画は『おおかみこどもの雨と雪』以来だったが、『ねらわれた学園』もとても楽しめた。こちらの作品、ぜひとも青いえんばんを購入して大画面で観ていただきたい。
『ガタカ』について
久しぶりに面白い映画を観た。
誰に読ませるという意図もないサイトなので、映画の詳細を紹介するつもりはないけれど、技術進歩が近未来の社会に与える影響というビジョンを分かりやすく見せつつ、そこから作品主題へと絡める手際というか図式の提示の上手さが実にSF作品らしくてよかった。
遺伝子によって決定論的に扱われるひとの優劣を超克して、「そこに辿りつくことは不可能」と言われ続けた未来へと辿りつく人間の話……というと難しそうな話に聞こえるのだが、いざ作品を見てみると驚くほどすんなり受け入れられる。ひとつひとつの設定やテーマが、きちんと選ばれたモチーフによって分かりやすく描かれていくのだ。
たとえば、「『誰かの言う不可能』は不可能じゃない」という認識をヴィンセントに与えることとなる弟アントンとの度胸試しの遠泳も、土星(というか衛星のタイタン)に行きたいと願うヴィンセントの夢もそうだが、見ていて聞いていてとても分かりやすいもの。
そして、その分かりやすさはキャラクター配置というかそれによって形づくられるテーマ図式にも見て取れる。
「ヴィンセントにとって遺伝子で語れば全く勝ち目のない弟」が超克すべきものとして最後まで立ちふさがってきたり、「成功を約束された遺伝子を持つはずが銀メダルしか獲ることが出来ず、自殺も上手くいかずに車椅子生活となったジェローム」が主人公に遺伝子情報を渡すと同時に彼の夢を受け取ったり、「ヴィンセントと同じく心臓に爆弾を抱えるガールフレンド」がヴィンセントを理解してくれたり、メインキャラクターの配置についてはほとんど一切無駄なく構成されている。
そしてこの構成から描き出されるヴィンセントというひとりの男の物語は、宇宙に還る(別に死んではないが)という一種の祝福で閉じられることとなる。
面白いのはヴィンセントの目的であり彼の属するガタカという組織の悲願でもあるタイタンへの航行について、驚くほどその中身が示されていないということだ。「タイタン」に行くことによって組織にとってなにがあるかとか、ヴィンセントにとってその場所自体がどういう意味を持つか、タイタンに行って具体的になにを行う予定であるか、そういうことが示されない。
「辿りつきたかった宇宙」というのはヴィンセントの目標そのものであるが、それ以外のものはなく、そこにあるのは遺伝子に支配された地球から離れたまっさらな未来であり、だからこそこの作品はタイタンに到着した彼の話で終幕としなかったのだろうか、などということを思う。
彼の欲しがり続けた未来が、現在になる前に。
追記
ジェローム(ユージーン)の最期に関してだが、ヴィンセントが夢を叶える姿に胸を打たれ、全てを託し、思い残すことがなくなったから死んだというような感傷的な話ではなく、優秀な彼の遺伝子が「この場合、足手まといとしかならない自分が死ぬ方が最良だ」と判断してしまい、その結果死を選ぶというシニカルな構図をとった可能性のほうが高そうだと作品を振り返りながら思った。