白日朝日のほーもぺーじ

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『犬と魔法のファンタジー』感想、あるいは「自分であるということを選び取る」おはなし。

 今にして思うと、田中ロミオという作家は最初から優しかったのだと思う。

『家族計画(山田一名義)』ははじかれ者の人間が寄り集まって、重ね掛けしたような苦境と闘いながら自分の人生を選び取っていく話であったし、

CROSS†CHANNEL』は、人間ときちんと触れ合うことが難しい人間を隔離するように集めた、そんな学校でも随一の狂人とされる黒須太一が足掻いて踠いて、他人を傷つけることのない安寧の場を得る、という話であったかもしれない。

『AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~』は、普通に焦がれつつそうじゃないものにも憧れ続けた一郎と、普通のひとの世界を拒絶した良子、その両者が両者なりのやり方で足掻きながら、最後はハッピーエンドを与えられる話であった。

 育てられた環境であったり生まれ持った性質であったり、ただ単純に過去の経験であったり、そういうところに由来する「与えられたものが少なかった人間」に対して、実際のところはとても優しい視座を持っている作家なのだと思う。

 ……という気持ちに至ったのは、田中ロミオライトノベル作家として書いた最新作『犬と魔法のファンタジー』を読み終えたからである。さて、ここからは前置きの文章とは変わって本作品のネタバレが多くなることと思うので、未読者の方、特に近々この作品を読もうと考えている方には読まずにブラウザからタブをペッと消していただくことを推奨する。ディスプレイの前にいるあんたやあんたが読む前に思っている以上に面白いかもしれない、そんな作品のネタバレ踏んじゃったじゃんとか読んだあとに悔いないためである。人間が踏んでいいのはドMの頭と地面くらいのもので、キリストの絵が描かれた銅器とか、誰かに影響を与えるかもしれない創作物のネタバレではないってこと。これでも帰っていない慎重な読者の方はいないと思うので、そろそろ本題に入りますぞ。

 

 さて、この『犬と魔法のファンタジー』という小説は多分最も「見えやすい」形で田中ロミオ作品的な人間観の表出した物語であると思う。

 この作品は要約すると「ファンタジー世界で、実に現代的リアリティのある就活に疲弊していく不器用な人間たちが、足掻いたり涙しながら不器用なりの生き方を選ぶ」そんなお話である。

 そんなお話であるせいなのか、主人公とそれに並ぶメインキャラクターともいえるふたり、「チタン骨砕」と「ヨミカ来倉」にはびっくりするほどカリカチュアライズされたキャラクター描写が少ない。佐藤一郎が中二心をくすぐるワードやシチュエーションに対してやけに饒舌になったり、河原末莉が家事を頑張りすぎて倒れるといったようなシーンもない。ごく普通の出会いをしたといえる人間同士が、これといった決定打もなく反目しあったり、これといった好意も見出さず行動を共にしたりする。ぶっちゃけて言うと、チタンとヨミカの物語として捉えるには本当に淡々としたものであり、何なら恋愛ものと口にするのも紹介文としては憚られる。

 ただそれでも、俺はこの作品がひどく好きであり、チタンとヨミカの関係を描く物語という側面でも好きだ。この、本当に何気ないところから立ち上がるような人間関係の描写というのが狂おしいほどに効いている、と個人的に感じてしまうからだ。

 まあでもそれは俺の好きな創作物がなんであるかという話に方向性に寄り過ぎているのでこの話は一旦置いておくことにしよう。話は脇道にいっぱい逸れているが、俺が語りたいのは「この作品、とても面白かったよな」ということである。

 既読者であれば作品への好悪あれどきっとご存知のことであるとは思うが、この作品の序盤、「ファンタジー世界でリアルな就活をやっている」という描写に対して、本当に細かく手間と時間をかけて周到に行っている。正直に申し上げると、序盤を読んでいるときの自分は「そんな面倒くさい手続き踏むほどの取れ高あるの?」くらいのことを思っていたし、あまりプラスには捉えていなかった。まあ、ファンタジーで就活ってのは題材としてはまあまあ新鮮かもね、というようなエラそうな視点で見ていたわけである。ロミオ信者だって刺さる作品の供給量が減るとたまにはロミオにエラそうな顔する、本作ではさっくりそんな自分の隙を突かれたわけだ。

 しかし、「ファンタジー世界でリアルな就活をする」というのは、物語の軸ではあれど主題に直接足を突っ込むものではない。その先にあるものは「ひとはどういう生きかたを選び、肯定するのか」ということである。

 この作品にAURAめかした一種の英雄譚のような浮足立ったようなハッピーエンドは存在しない。その世界に於いて不器用な生き方をしているとしか言えない人間が、自分なりの回答を出して不器用な生き方を選び取る……ただそれだけの物語であり、それがこの作品の田中ロミオ作品としての特異性のひとつであると思う。

 田中ロミオ作品を「足掻くはじかれ者に優しい物語」であるとはこれまでもどこかで思っていたが、この作品はやや性質が異なっている。

 チタンは「狂人が」とか「社会に適合しなかったものが」とか「クラスに馴染めなかったものが」とかそれほど極端な人間ではない。友人もいたり簡単に慰めあえる人間もいたり、ついでに言えば学歴もまずまずだ。まあひとつ上手くやれれば良い人生を過ごせているかもしれない人間であり、ある程度は「与えらえた」主人公でもあった。それでも上手くいかないことだってある。そういうところのありふれた絶望に、他人が見落としそうな恐怖に足を踏み入れるよう描かれている。

 ただ、だからといって、主人公であるチタンが就活に苦しみ喘いでいる描写をそれほど好意的にもコメディ的にも描かない。当たり前のように企業から祈られて、当たり前のように落ち込んで、時には絶望して反目している人間に自分の過去を吐露するほどどうしようもないメンタルに陥ったりする。

 同情するように描かれているように見えるが、優しい目で主人公に同情しているようにも見えるが、別に目に見えて苦境に足掻きまくっている彼らに「完全無欠のハッピーエンド」が与えられるわけではない。あくまでも、「確定的に普通になれなくて、どうしようもなく不器用で、それでも何らかの形で生きていかなければならない」そんな人間が「ほぼひとつに限られた選択肢を肯定的に選び取り、その道を登攀するように生きることを決める」というお話だ。

 突き放している、と心のどこかで思う。

 突き放してくれ、と心のどこかで思う。

 この作品はハッピーエンドでもバッドエンドでもなく、チタンが選びとった生き方に肯定的な素振りも否定的な素振りも見せない。

 ただ、その生き方をチタン自身は肯定をしている。それが「たぶん。俺をやっているだけ」と言う彼自身の生きる価値であるように締めくくられるのだ。

 作品として用意された主人公への祝福の場はいらない。

 道を選び取った自己に肯定できる自分が、その道を攀じていける自分がいればそれで良い。

 というような突き放しが驚くほど心に刺さる、そんな物語であったと思う。

私的おすすめ漫画作品 10選

 選考基準は曖昧ですが、おおむね「俺は大好きだけど、身の回りであんま感想見ねえな」みたいな作品を選んでいる感じです。割とメジャーな作品、マイナーだけれど自分の周囲では良作扱いされていたり流行っている感のある作品は予めはじいております。

 

 作品はタイトル名順で並べています。

 

・あまりまわり(15/06/10現在、二巻まで刊行)

 まんがタイムきららキャラットで連載中の『Aチャンネル』でおなじみ、黒田bb先生が電撃のほうで書いている漫画作品になり、こちらはAとは違い四コマ形式ではなく、主人公も男キャラだったりします。大まかなあらすじとしては、いぬねこ大好きモフモフしたい系男子大学生のハルと、児童養護施設で暮らすキラキラするもの大好き少女アマリがひょんなことから出会って、アマリ大好きな女の子のキョウカはじめ施設のゆかいな仲間たちといろいろ交流するお話です。

 この作品のなにが良いかって、まー無口系髪の毛もさもさ少女のアマリのかわいさがまずひとつ。アマリという少女、口数少なではあるんですがbb先生の描く表情がとても雄弁で主人公にはあんまり伝わらなくても読者にははっきり伝わっちゃう感じが良いです。また、アマリには子供っぽさ由来の不器用さがあって自分の思ったことを上手く伝えられないものの、心根はとても素直なので彼女のまっすぐ気持ちが伝わっているときの破壊力がとても強いんですね。

 あと、それと並ぶ特徴としてこの作品はAチャンネルより露骨にフェティシズム描写が多いです。ラッキースケベとかそんなチャチなもんじゃねえ。なんなら作品テーマがフェチかよというレベルでまあずっとフェチです(なんも言ってねえなこのくだり)。この辺を詳しく説明することもできるのですが、概ねのところはAチャンネルでちょいちょい挟まれるフェティッシュな感じが、やや歯止め効かなくなって頻発している感じを想像してもらえるといいような気がします。Aチャンネルをそういう視点から消費している層にとっては非常にパフォーマンスの高い作品になっております。今後どういう展開をさせていくのかについては意外と見通しの効かない作品なのですが、一巻より二巻のほうがだいぶフェチ歯止め効かなくなっている感じなので、もしかしたら三巻はさらにそっちのほうへと舵を切るのかも知れませんね。

 

・現代魔女図鑑(現在、二巻まで)

「現代の日本、魔女が当たり前のように存在し、社会や文化に根ざして生きる世界」という場所を舞台としたオムニバス形式の作品です。この作者さんの作品に触れるのはこれが初めてなのですが、繊細な線、実に豊かな感情の描写、描き込みの緩急やそこから生まれるダイナミックな構図の演出など、とにかく「きれい」で「つよい」漫画を描く力がとても強い作者さんという印象です。だからといって美麗な絵だけに終わって筋書きについては弱いかというとそんなことは全くなく、内容についてもその「絵」から喚起されてくるエモーショナルな感じを上手く絡めて一話一話端正に作り上げている感じです。

 作画能力だけでも割と異能なこの作品ですが、この舞台設定をすんなり受け入れさせる構築力や手順というのもかなり優れていて、一話を読み終える頃には「ああ、こういう感じの舞台か」というのは大体掴めるものかと思います。Kindleやニコニコ静画などに冒頭の試し読みがあるようなので、どういう作品か掴みたいかたはそちらを読んでみると良いかもしれません。

 

・恋は光(現在、二巻まで)

 生々しいいちゃラブを描かせたら読者側が糖分の過剰摂取になってどんどん砂糖吐き出すマシーンにさせられる秋★枝先生の現在の連載作品ですね。

『恋愛視角化現象』の路線に近いと言いますか、主人公である男子大学生の西条は「恋をしている女性を見るとその女性が光って見え」、事実としてこれまではその感覚が的中しているというという異能的な感覚の持ち主なのですが、その能力ゆえなのかこれまでまともに恋をしたことがないというちょっとしたズレた人間でもあり、そんな彼が同じく「恋を知らない」という女子大学生の東雲さんに惚れるところから物語はスタートします。

 ……と表現するとただの純愛作品っぽいのですが、ここに厄介な問題がありまして、西条にはいつも隣にいて楽しく話をしたりお互いに相談役にもなる北代という幼なじみな女友達がいるわけです。しかも、西条はこともあろうにその北代に東雲さんと仲良くなる仲介役を頼み出て、しかも北代はそれを了解するわけですね。はい、そこの幼なじみ好きひとり死んだ! とまあ、この作品の図式はまあまあエグめです。序盤は西条も北代も割とカラッとした感じでこの辺りの関係性を流していくのですが、お話が進むにつれてどんどんややこしさが増していきます。女性陣が西条に対して光を放つか否かというのが筋書きとしてはキーポイントになるのですが、まあその辺は読んで確かめて欲しいところ。

 秋★枝先生作品らしい特徴として、恋愛感情やそのあたりのステップの踏み方への考察が非常にがっちりとしているので、ちょくちょく北代が西条の恋愛相談に乗るあたりのくだりも、そこだけ抜き出して恋愛アドバイス漫画にしても面白そうなくらいです。

 作品としてはまだ二巻、現状でも抜群に面白いのですが、ここから砂糖を吐くのか血を吐くのか、願わくばどっちも吐き出すくらいの面白さになればいいなと期待している作品です。

 まあ、試し読みあるらしいんで適当に検索して読んでください。(てきとう)

 

・少女公団アパートメント(二巻完結)

 まんがタイムきららのドキドキビジュアルコミックスです。

 団地で暮らす少女たちが仲良く遊んだり、散歩したり、部屋でのんびりしゃべったり、ピクニックしたり、仲良く遊んだりするほとんどそれだけのお話です。

 それだけの話なのですが、女の子がかわいくて、乳が薄……スレンダーで、あとまあ、キャラクターのヘアスタイルがしょっちゅう変わったりして、なんというか、変なフィルターを出来るだけかけずに女の子をかわいいものとして描こうとしている感じが特異性で、おすすめしている側なのに上手く表現できないのがもどかしいのですが、「女の子が集まって楽しそうにしているだけの漫画」をある意味で煮詰めずに突き詰めたような作品で、そういうところが魅力的なので、まんがタイムきららのドキドキビジュアルコミックス的なものが好きなだけどまだ未読というひとにはぜひとも読んで欲しいんだよなあ……。

 

・じょしけん。(現在、一巻まで)

 つぼみコミックスですが、概ねまんがタイムきららのドキドキビジュアルコミックスです。

 これもまあ先述の少女公団と同じく女の子が仲良く遊んだり集まって楽しそうにしているというのがほぼ大部分の漫画です。こちらは四コマ作品ではないのですが、作品を貫く色調としてはふつうに「Aチャンネル」や「きんいろモザイク」なんかとも通じるもので、むしろ百合レーベルで扱うものとしては『ゆるゆり』みたいな異端さがあるような感じです。

 筋書きは、頭が良いけど勉強漬けで女の子と馴染めてこなかった「小金井こがね」という低身長貧乳な眼帯少女が、「女子校に通って女子高生の生態を研究するぞ」という意気で転入するも、まあ実際のところはクラスの女の子と友だちになって女子高生らしいことをするんじゃぞい、みたいな感じです。

 この作品の一番の魅力は、作者であるのん先生の描く女の子がかわいい。というところにあるのではないでしょうか。この作者さんは元々、京アニのアニメーターであり(wikipedia参照)、『中二病でも恋がしたい!』原作で挿絵を担当していたような、とても強く「京アニ」感の漂う経歴の持ち主なのですが、このじょしけん。という作品も非常に京アニのアニメっぽい漫画に仕上がっています。なんなら原作『けいおん!』よりもアニメ『けいおん!』臭がするくらいです。キャラクターデザインは言うに及ばず、細かく手や脚に演技をさせる登場人物の細かな仕草の描写、こういうところまで意識が通っている(っていうのと、その手法の癖の)感じが非常に「けいおん!」前後頃の京アニっぽいわけですね。

 そして一方で、この作品には吉住とかいうかなりズボラな女の子が出てきます。制服のボタンは掛け違えとるわ寝癖はそのままだわ雑だわ、体操服は一週間持って帰らないわ。体操服は一週間持って帰らないわ。体操服は……(以降リフレイン)そういう雑な女の子でも、見た目と仕草と雰囲気と関西弁がかわいいのでやっぱりかわいいわけですね。別に僕は体操服を一週間持って帰らない女の子に対して深い執着があるというわけではありません。そして、唯一ストレートに百合レーベルらしさを持つ笹原さんのこう説明のめんどくさいかわいさも良いし、あと吉住の妹であるもえみちゃんの姉介護担当妹っぽさもとても良くて良いです。

 現在、一巻だけしか出ておらず、つぼみ自体が休刊していることもあって、続きは出ないのかな……という状態ですが、魅力的な作品であることは間違いないので読んでほしいし、これ面白いよってうるさく言ったら続きも出るかも知れんやん? という話なので読め。

 

・閃光少女(三巻完結)

 カメラマンの道に挫折した主人公が、高校の写真部の顧問を断りきれずに担当することとなり、そこでの出会いによって、カメラへの情熱や心の内にあるまま蓋をされた色んな気持ちを取り戻していくというお話で、いわゆる青春モノ的な感じではあるのですが、この作者さんはお話からエモーショナルな感情を引き出すのがやたら上手く、前作である『夕焼けロケットペンシル』で見せたその片鱗を更に研ぎ澄まして一作品として書ききっています。元プロカメラマンの濱野、写真部のヒカリ、このふたりを中心として「カメラが好きだからこその道を迷いながら進んでいく」という姿がとても真摯に描かれており、とても心に刺さります。

 青春モノとしてだけ捉えるのではなく「創作者へ向けた作品」という部分も感じられて、今では個人的にとても思い入れの深い作品となっています。三巻で終わるコンパクトな作品なので、気軽に手にとってみて欲しいですね。

 

・父とヒゲゴリラと私(現在、三巻まで)

 知っているひとは知っている、知らないひとは覚えて帰ろう。この作品の作者である小池定路さんは、アボガドパワーズというメーカーから発売された良作美少女ゲーム終末の過ごし方』などの原画家をされていた方(当時は別名義だったかと)で、現在はコミック連載がメインフィールドの作者さんです。ちょい古参エロゲーマーにとってはちょっと感慨深い名前なのです。

 さて、この作品には取り立ててエロはありません。妻を亡くしたおっさんと娘、そしてそのおっさんの家に住む弟のおっさんが中心となる四コマ作品です。娘は幼稚園に通っていて、弟のおっさんが世話したりもするみたいな感じ。大まかな雰囲気は『よつばと!』めいてもいるのですが、この作品はかなりおっさんのコミュニティについて深く掘り進んでいきます。というか、ゆっくりとおっさんが恋愛方向に磁場を持っていかれるようなお話です。おっさんかわいいですがおっさん同士の恋愛ではありません。

 穏やかな話なのですが、時折、ちらりと落ちる影のようなものがとてもよく効いていて、ただ平和で静かな作品に終わらない深みを感じさせてくれます。四コマとしてもしっかりしていて、読み味がとても良いです。三巻段階で物語としては少しずつ終わりへと向かわせているのかなという雰囲気が感じられてきたので、五巻くらいでまとまるんじゃないかなあとどっかで考えています。

 穏やかさと優しい視点を持った良い作品なので、おすすめですぞ。

 

・ネコあね。(六巻完結)

「家で暮らしていた猫が、猫又になったので人間になれるようになりました。姿は女子です」という設定のこの作品、まあ漫画や美少女ゲームに限ることなく設定としてはかなりありがちで斬新さに欠けるのですが、この猫というのが主人公である銀ノ介(両親を亡くし、祖母の家に引き取られている)がこの家にやってくる前からその家で暮らしているという理由から、彼の「姉」として振る舞おうとするところで独自性が上手く出ています。

「銀ノ介よりも長くここにいるんだから、猫として彼を慰めたり助けたりいっぱいしてやったんだから」という自負でお姉ちゃん面をしながらも、人間としての文化の理解にはまだまだ乏しくて、なんならやっぱり元動物だし、さらに銀ノ介は銀ノ介なりにしっかりと成長しているしでなかなか姉ぶれない猫又の杏子というズレた感じをほんわかとしたコメディに見せてくれます。そういった些細なキャラクター同士の気持ちの扱いが上手くて、読んでいるうちに応援してあげたくなるというか、善意同士が上手く通じ合うようにしてあげたいというような気持ちにさせられます。

 そんな心根の良いキャラクターばかりが登場するこの作品、別に平和なだけで終わるわけではありません。徐々に、物語の終わりに向けてお話が動いていきます。後半は後半でやっぱりある意味ありがちなお話ではあるのですが、キャラクター感情の積み上げがとても上手く出来ていて、終盤はほとんどボロボロ泣きながら読んでいました。それでも、読後感は「ああ、良いなあ」でじんわりと締めることができます。

 また、読み終えてから感じられるものがいろいろある作品なのでとても強くおすすめしている……んだけど、あんまり読んでくれるひとがいねえ……。

 

・箱入りドロップス(現在、三巻)

 現在、まんがタイムきららで連載中、箱入り少女の雫が主人公である陽一の暮らす家の隣に住むことになったところからスタートするこのお話。シチュエーションとしてはややありがちとも言えるのですが、登場人物が増えていくことが上手く作用している作品でもあり、この作品は一巻というよりむしろ二巻三巻となるにつれて、登場人物同士の関係性の動きがはっきりと現れてきて面白くなります。

 箱入り娘で素直でかわいい雫、その雫が危なっかしくて放っておけない陽一、さらに雫のことがかわいくて仕方ない女子勢、あと相ノ木の妹、ほか(相ノ木)など登場人物の配置と動かし方への安心感がとてもあって、しかもかわいいだけじゃなくラブコメディーとしてもしっかり動かすことができている良い作品です。

 特に二巻の締めであるバレンタインのお話の破壊力はとても高かったですね。

 アニメ化も有りそうな気のする作品ですし、確かどっかで盛り上がっていた作品だったと思うので、あんまりマイナーではないかもです。とはいえ、あまりおすすめを公言していた作品ではないので、ここでひとつ。面白いです。

 

ひよぴよえにっき。(二巻完結)

 まんがタイムきららのドキドキビジュアルコミックスです。

 小学五年生のおんなのこが二歳になる妹のお世話をする、ほぼそれだけのお話です。まあ、きらら系の作品には「女の子が○○するだけ」というような作品がそれなりに多いとは思いますが、この作品はそういったなかでも特異なくらいにずば抜けて「○○するだけ」であり、かなり閉じた作品です。なんならほとんどの場面が家のなかだけで構成されていますし、一巻はほとんど他の人物が出て来ません。姉であるちあき、妹のはる、はるがちあきを好きで、ちあきがはるを好き。それ以外にほとんど無いです。

 そういうぶち抜けた作品であり、その表紙帯にある「いまのふたりは、ふたりだけのもの。」「おねーちゃんと、いもーとと。ふたりはなかよし」という言葉はまさに象徴的。妹の世話をがんばる女の子かわいい、幼児かわいい、要はちっちゃい女の子かわいい。そういうものの結晶みたいになっております。別に俺がロリコンだからこの作品が好きなんじゃなくて、好きな作品がたまたまちっちゃい子ばっかりだったんだということをここに声高く弁明させていただきたい。

 いわゆるロリコン向け漫画というのは色々と存在するのですが、その手の作品にありがちな歪んで汚れた欲望感あふれるフィルターではなく、透明すぎて逆にプリズムを放つような独特の作品です。こう言うと、癖が強い作品に感じられるかもしれないですが、四コマ漫画としての精度もすごく高く、しっかり面白い上で突き抜けているので、邪悪な欲望を抱えたロリコンどもはこの作品読んで浄化されろ。(たぶん浄化されない

『ちょびっツ』観終えました。

「あー、久しぶりにストレートにSFっぽいお話観れたなあ」

 というのが自分のなかで一番先に出てくる感想ですね。

 SFらしい……設定というifが、主題にあたるものを拡大あるいは補強していく感じがとても好ましかったです。もちろんこれは個人的なSFの感じかたであり、作品全体を観るときに「PCなる事実上のアンドロイドの普及にあたって、社会とかいうシステム機能してなさすぎやろ」などツッコミどころがないわけではないので、SF観次第ではゆるすぎると感じられる部分もなくはないと思います。

 ただ、個人的には「あー、これSFや。いいわあ……」となりましたね。

 主題の伝えかたが丁寧なのと、主題自体がストレートかつ広く受け取りやすいのも最終的には好印象でした。

『「好き」ってなんだ?』みたいなところに主眼が置かれて、それを作品開始時点では恋愛方面では何者でもない(たぶん彼女いない歴=人生な)主人公「秀樹」が、世界についてなにもデータを持たないPCの少女「ちぃ」と過ごしていくその過程をじっくり描いていくことで、「好きを一からつくりあげていく様」とまた同時に、周囲の人間たちとの交流を通して「人間に対する好きとPCに対する好きがどういう違いを持つか」みたいな疑問を秀樹や受け手へと与えていく感じがとても良かったです。

 終盤はほんとうに重ねがけでテーマの答え合わせをしていくような感じで、秀樹目線で物語を見ていたわけでもないのに、秀樹が答えを求められたとき自分のなかにも答えるべき回答が存在しているような感覚になれました。

 なんとなく作品がはじまった時点で予想していたことでもあるんですが、自分自身やはり序盤のちぃがいちばん好きだったらしく、ストーリーが進むにつれてそのあたりの感情移入度は低くなっていっておりました。むしろ裕美ちゃんと植田さんのストーリー周りのほうに感情が持っていかれていた感もあります。おかげさまでChapter.19『ちぃ 待つ』にボロ泣きしていました。多分俺、「好きという気持ち」と「生きるとか死ぬ」と「記憶」を重ねたお話にとても致命的に弱いんですね。植田店長の回想エピソード聞いてからまともな精神状態になるまで、Chapter.21のかなり終盤くらいまでかかっていた気がします。

 それで、面白かったことには面白かったのですが、終盤が正気じゃなかったせいで多分相当に駆け足な印象でこの作品を観ていた感じになってます。そのため、「ん? 結局これってどうなったんだ」という部分が結構多いので、やっぱり原作を集めてみようかなと思っています。『ちょびっツ』に関しては原作を読んだあとにまたなにか書くことがあるかも知れません。

 とりあえず、過去のアニメでは久しぶりに抜群に面白く感じられました。こういう作品ならいくらでも観れるなあって感じです。

アイドルマスターシンデレラガールズ』四話がとても良かったという話

 一話を観たあとにかなり批判的な態度をとっている日記がmixiにあるのだけれど、三話まで観た段階からほとんど無抵抗なぐらい作品にタコ殴られながらの視聴になっている俺がいるので、その辺は一旦保留しておいて、機会があればあとで言葉として整理しようと思います。

 さておき、四話です。
 卯月、凛、未央の三人に「シンデレラプロジェクトの自己PR動画」を撮ってきてもらうという内容の回 でした。この回の冒頭の時点で「あ、俺負けたー」くらいのことを思うくらいには、完璧にハマるアイデア持ってきたなと感じたわけです。
 なぜかというと、このアニメって三話までひとつの回ごとに違ったベクトルの登場人物たちを(一話ごとに別けてという意味じゃないですが)描いているわけですね。
 例えば一話で、まだアイドルとしてのスタート地点にも立っていなかった卯月やアイドルになろうという考えを持っていなかった凛、二話で未央やそ の他のプロジェクト・メンバーと出会い、アイドルとしてのスタート地点に立ったふたり、三話でやるべき仕事が入りアイドルとしての階段を登りはじめた「お しごとの顔」込みでの卯月、凛、未央の三人だったり、三話ではその一方でみくさんを含めたメンバーたちのアイドルをやることに対する意識も描いていく。
 そういうひとつひとつは物語として当たり前に描かれるものであるべきっちゃべきなんですが、本来は主役級のキャラごく少数にだけ特権的に描かれ るもので、この登場人物の多さにしてこれを丁寧にやっていくというのは本当に難しいことだと思います。キャラクターを描くというのは場合によって物語のダ イナミズムを停滞させることだってありますし、本来ならこの人物描写をさばいていくのに十話くらいかかっていても仕方がないかなあと感じるほどです。
 そこでこの四話ですよね。
 卯月、凛、未央の三人でメンバーたちのPR動画を撮るというこれ。
 これ一話なり二話段階でやるとただのキャラクター紹介という印象しか与えなかったと思います。
 それが四話に来る。
 三人はこれまでにいくらかの経験を積み、同時に他のメンバーたちとの関係性もできてきつつあるタイミングです。この四話のアイデアにおける 「キャラクター紹介」であるという性質は変わりませんが、この場でのキャラクター紹介には一度、複数のキャラクター間での関係が導入され直します。
 その例としていちばん分かりやすいのが、三話でも比較的多く三人と絡んできたみくさんの描写ですね。登場してすぐカメラを向けられて「アイドル としての外面と、身内に向ける油断顔」みたいなものを見せてみたり、三人が年少組のふたりを撮影するレッスン室で年少組に向ける「教育係的な顔」だった り、一気に多層的になるんですよね。結局、みくさんは本人の言うとおり真面目にレッスンするため部屋に来たわけで、面白そうだからってレッスン放っておい て三人について行ったりとかしないわけです。それでも、カメラが回っている場所では出来るだけよく映ろうとする姿とか、ぽつりと口にする悔しさのセリフと かもう真面目だからとかどうとか以上に見ていてキャラクターが駆動している感じで興奮してくる何かがあります。
 閑話休題、年少組というものの莉嘉とみりあの組み合わせにしてもどういうキャラクターであるかだけじゃなく、互いに対してどういう振る舞いをするかで像が補強されていますし、二話でも印象的だった杏ときらりの凸と凹な組み合わせにしても同じように補強されてますよね。
 それから李衣菜であったり蘭子は単独での登場になりますが、そこには卯月たちとの距離間など(蘭子に関してはメッセージの読み取り手としての美波であったり)で結局、複数の顔を見せたり匂わせたりしているんですよね。
 そして、卯月たち三人自体がひとりひとりを見る目線というのもきちんと用意されていて、ここまで見て結果的にすごく多彩な視点でキャラクターを見ていくことができる。
 最初はプロデューサー目線と卯月や凛による目線(もしくは単純に受け手そのものの完全な主観)のみだったものが、一気に見方が広がっていくと。
 かわいい女の子単体を見ていたいひとにも、キャラクターをカップリングして楽しみたいひとにも、キャラクターが成長していく物語を眺めたいひと にも、誰か特定個人に強く感情移入していきたいひとにも届いていくようなキャラクター導入をここまででやっている。これは本当に見事だしすごい。
 そういう意味でも、卯月たちの撮影した動画を見てくすりと笑うプロデューサーの背中を仕上げに描写したのは本当に感嘆するレベルでした。

 アニメーションとしての出来も個人的な作品そのものへの興味も、キャラクターへの興味(個人的にはみくさんかわいい)も、物語として見ていて学ぶところが多い嬉しさも引っ張って来られてしまい、本気で見逃せないアニメになっていて今後がすごく楽しみです。

『ちょびっツ』を観ている

 原作、アニメ版ともに開始されてから十年以上経っているという今さらではありますが、『ちょびっツ』のアニメ版を視聴開始しました。

 以前から近所のレンタルショップに置いていないか探してはいたのですが、見つからなかったので今回は潔くGYAOに課金しています。現代って良いですよね、わざわざ出かけて探さなくても古いアニメを見れたりするんだぜ。現代万歳。

 一話から六話まで、七話から十一話までとを購入していますが話数×80円+税だそうです。

 現在、九話くらいまで観ているところでまず一番最初に出てくる感想は「ちぃやばい、やばいって」ってことです。おおむね作品発表当時の現代を意識した世界観に、「PC」と呼ばれる人型のパソコン(見た目と手触りは人間そのもの、機能的には人間のように動いて喋るコンピューター本体ともいえる機械)が人間のために働いたり、ともに暮らしているというような設定だそうで、田舎から出てきて都会の予備校へと通うことになった主人公はひょんなことからゴミ捨て場に放置されていた少女型のPCを拾ってしまうという流れです。

 この時点で個人的にはなかなかにエグい設定ではあると思うのですが、なんというか、作品全体に漂うある種の道徳観みたいなもののラインが、序盤のほんわかした作風から考えるとかなりギリギリに設定してあるように思います。

 PCをほとんど人間として扱っているような人間もいれば、自律的に動いてくれる便利なデバイス程度として扱っている人間もいて、またこの作品の主人公である本須和秀樹のようにかわいい(この表現が微妙でめんどうくさいのですが)女の子として扱っているというように、この作品に登場する個々人でPCという存在への対応が違っているというのが提示されていたりもします。

 少女型のパソコンを所有するということは、見た目上だと少女を所有することとほとんど変わらず、秀樹によってちぃと名付けられた少女型PCも、最初はほとんどのデータがないため鳴き声のように「ちぃ」と言うだけしかできませんが、学習ソフトが搭載されているため物語が進むにつれて少しずつ言葉を覚えてゆき、意思の疎通もそれなりにできるようになります。

 話がそこまできてつい思ってしまうのは、「これ、事実上ほぼ人間じゃん」ということです。もちろん、機械であるという設定の部分で見た目が成長することはないとか、寿命というのが長くも短くも人間と変わるというのはあるのですが、序盤でのちぃは描写として多くの部分が「見た目が少女で、幼児のように知識を持たない生きもの」です。だからちぃは学習するためにひとつひとつ秀樹の行為を真似したり、秀樹の言葉ひとつひとつを反芻するのですが、その描写が非常にかわいい。むやみやたらに演出的なかわいい描写があるのではなく、言葉にした通りのことをちぃが行動するだけですが、そういうのが無茶苦茶かわいいんですね。ちぃが新しい言葉を覚える、ちぃが新しい振る舞いを覚える、その中でちぃが無邪気に秀樹に抱きついていくみたいなとてもプリミティブな秀樹に対する好意を素直に見せる……その全てが本当にかわいらしい。創作者目線みたいなところで言うとこれ、「むっちゃ卑怯じゃん、こんな愛玩吸引機みたいな設定ずるいよ」みたいな感じなんですが、絶妙に設定がエグいです。

 例えば、ちぃの起動スイッチにあたる部分、それは作品中だと女性器にあたる部分と表現されています。だからこそ、少なからず、何も知らない人間が「ちぃ」を起動しようとした場合、そういう部分まで触れてしまう人間にしか反応しないという、ある種のモラルみたいな線をちょっと乗り越えてからの好意の描写に向かっているんですよね。

 だからこそ、ちぃをただかわいくてあざとい設定のヒロインというような距離を置いては感じられず、SF的ともいえる、物語によるifを内包して受け手に迫るようなヒロイン像としても感じられるわけですね。自分が受け手として逃れられず、しかもかわいい。こういう女の子はそりゃやばい、というのがここまでの印象ですね。

 なんつうか、ちぃの描写は序盤段階だと女の子というかわいさよりも、秀樹が家に帰ってきたらまず喜ぶような鳴き声上げて抱きつくっていう、よく懐くペットの犬や猫みたいな愛玩動物の振る舞いなんですよね。そういう振る舞いのちぃをそのまま「すげえかわいい」って言い切ってしまう秀樹って相当に歪んでいるか、ちぃを田舎の牧場と同じ動物レベルとして愛しているかの二択だと思うし、ここまでの様子を見るに、ちぃの姿から年頃の女の子像はかなり強めに感じている(ちぃが裸のような格好をすることに慌てたり焦ったりしてしまう)ようですし、まあ前者に近いんじゃないかと。そういうのってどうかと思うんですけれど、まあ俺もこういう生きものすげえかわいいと思っちゃうんで、正直、真っ向から批判できる気しないんです。

 まあ色々な気持ちもあって、ちぃの存在はエグいしかわいいと思う気持ちがほんとうに強いですが、序盤の段階で歪んだクソ童貞としか思えない男子を主人公にするのってすげえ英断だなあと思いました。

 ちぃ、かわいい。ちぃ、おぼえた。

二次元のいきものをかわいいと思う瞬間のはなし

 一昨日はたいようのいえ最新巻を読んでいた。相変わらず真魚のかわいさだけでご飯三杯余裕でいける内容で、くはー、とか意味の分からない奇声をあげながらベッドの上で転げるような状態に運ばれてしまった。

 昨日は青い花の最終巻とタカハシマコのスズラン手帖を読んでいた。とても面白かったのだけれど、面白さの形容ではなくそのままの意味で全身がかゆくてしにたくなっていた。かゆみと神経にクる系の痛みは拷問レベルで取り扱うことが可能なんだなってことをまた文字通り肌で感じた。それはともかく、ふみちゃんがすぐ泣くので読んでいるぼくもたいへんです。

 さて、今日の自分はアニメや漫画、エロゲにこれといったこだわりを持って接しているわけではない。十年前くらいだと「エロゲっていうか、シナリオが秀逸な作品に興味があるってだけ」みたいに言ってたはずなのだけど、面白いと感じればバトルものでも恋愛ものでもオカルトにミステリー問わずに触れてしまう。恋愛ものでも女の子ばかりが出てくる作品中心に触れてはいるものの、たいようのいえを好きと言っているように、男女の恋愛ものだったり別に男同士の恋愛話でもそれだけで避けるということはまずない。

 ただ、どうせ観るなら「かわいい」と思える登場人物の出てくる創作がいいらしく、恋愛要素の少ない作品に触れることはあまりない。

 さて、この「かわいい」についてだけれど、自分が創作で「かわいい」と思っている感覚を他の誰かとあまり共有したことがない。創作に対する距離のとり方のひとつとしてなのか、なんとなくこういう気持ちについて身近なひとと話すことを避けているところがある。

 とはいえ、「自分の思うかわいさの他のひととのズレ」みたいなものが気になるとそこに興味が沸いてくるもので、職場のアニメ好きの先輩との会話中、話の流れがこういう「二次元キャラのかわいさ」みたいなところに辿り着いたため、このあたりについて質問をしてみた。

「二次元の女の子がかわいいと思う瞬間ってどういうタイミングですか?」 これに先輩は、

「好きになってたら、登場するだけでかわいい」

「笑顔を見せているとかわいい」

けいおんの憂ちゃんとかだと、お姉ちゃん自慢しているときがかわいい」

 というような回答を返した。

 ちなみにこの先輩は割と三次元の住人なので、二次元の女の子を「かわいい」と感じても、それは赤面したり気恥ずかしくなって画面から目を背けるみたいなレベルまでいくこともなく、画面に向かい「ほぅ……かわいいやん……」と呟くくらいだそうだ。このあたりは、「うわー、かわいくて死ぬ―」みたいなことを言って画面や漫画を真正面から見れなくなる自分とは違うけれども、納得のいく部分も結構ある。

 特に「登場するだけでかわいい」なんていう状態は、一度発生してしまうとその物語が終わってしまってすらその娘をかわいいと思う気持ちが抜けていかなかったりする。

 ただ、もっと気になったのは3つ目のところ。

「憂ちゃんが姉自慢しているときのかわいさ」についてだ。

 ここに自分がキャラクターをかわいいと思う瞬間に最も近いものを感じた。

 自分は、けいおん秋山澪が好きだとしきりに口にするのだけど、じゃあどういう風に澪のことが好きだと考えているのかというと、一言で表現するには難しい話になる。容姿だけでいえば、純ちゃんに唯、あずにゃんあたりの方がよっぽど好きだし、良くない喩えではあるけれどこれがエロゲならあずにゃんあたりを気に入って、攻略を後回しにするみたいなことをやりかねない。

 そんな中で、秋山澪をかわいいと思うのは、単純に性格が良いとか見た目がかわいいからというより、あのキャラクターを構成する色んな要素がすごく整っているからだと思う。内弁慶な態度、心の許し方、趣味や、相手によって変わる会話の雰囲気、その他諸々の感じが、なんか秋山澪という女の子の「理路」を通しているようにみえるわけだ。

 理路が通っているということは、そのキャラクターについて納得しやすくなる。

 そういう納得する瞬間、そのキャラクターを理解させられる瞬間、「そうそう、この女の子はそういうことをするんだ!」と思わせられる瞬間に、自分は彼女たちのことを好きになったりしやすいのだと考える。

 キャラクターたちが物事に対して無意識的にでもどういう優先順位をつけて行動しているか、そのキャラクターにとっての突き通したいわがままは何であるか、またそれは彼(彼女)にとってどういう価値観醸成から生まれ出た気持ちであるか、あとはキャラクターたちがただ持っている些細なクセと気持ちの関係とか、実際のところは何でもいい。

 そういう「理路の発露」みたいなところに、自分のいわゆる「萌え」の根幹はあるのかなあとかそんなことを思った。

文章とはけ口

 某店長さんのブログを読んで思ったことを書き連ねる。内容としてはそんなにリンクしたり言及はしていないかと。

 

 ブログとかいうものを始めた頃から自分は全くといっていいほど、自分の文章で喋ることを苦手としている。

 ここからしばらく前提としての自分語りになるけど、そもそも俺が小説というか文章を書こうなんてことを考え始めたのは、小学校中学年頃、ミスチルの曲で替え歌をつくっていたあたりに端を発する。それがオリジナルの歌詞になり、フォーチュン・クエストを読んだ小学校高学年頃に歌詞では表現できないものを求めて小説もどきを書き始めたり、やがて中学生となりRPGツクールあたりが流行った頃にはかなり膨大な量の設定書を書くようになっていた。

 この頃は、純粋に文章を書きたいと考えるよりは「世界の表現」を求めていた頃で、実際のところ制作途中で挫折した様々なRPGや小説の中で、作中で登場するテキストの量が設定書のテキスト量を超えるということはまずほとんどなかったと思う。その設定書の文量に本文が追いつかないという傾向は現在も結構引きずっているのだけれど……(自傷ネタ)。

 とかくその頃の自分は、文章を書きたいと思う割に活字というのにほとんど触れないガキだった。中学生頃に読んだもので覚えているのはライトノベル坊っちゃんか官能小説か素人女性のエロ体験告白集くらいしかない。そんな自分でも、自分の考えた世界を具現すべしと設定を書き散らすことには人並みを超える執着を示した。いわゆる黒歴史ノートの産出量についてはその辺の自称中二病に負ける気はしないが、勝ったところで勝った気がしないのはどういうことだろう。

 さて、前提の話が長くなった。

 とりあえず自分について、文章を書くことが得意かどうかはさておき、ひとよりはそれを苦にしない人間であると自覚している。

 そんな自分の苦手科目が「日記」とか「ブログ」とか呼ばれるものだ。

「ブログや日記を面白おかしく書くこと」が苦手なのではなく、「日記を書くこと」がそもそも苦手なのだ。なにしろ自分には書くことがない。

 書くことのない人間が小説を志すとは面妖な話でござるなどとみる向きもあるだろうけど、ちょっとその辺を細かくいうと「日記に書くことがない」という話なのだ。別に、今日なにを食べてなにをやったか記してしまえといえば出来ないこともない。多少の脚色だったり体感に味つけして文章を上乗せするということも出来ないこともない。ただ、これは出来なくもないというだけであって、やりたくはないことだったりする。

 基本的に興味が無いことを書くというのができない、らしい。

 面白いもので、文章として書くぞという気持ちで書くとき、そういう自分の日常的な話をしてやろうという気がほとんど一切起きてこない。単純に今悩んでいることであるとか面白いと思っているものとかを文字にしたほうがよほど勢いのあるものになるのだ。

 こういう自分の側面に関しては、自分という人間が中身のない人物であるからという判断をくだしていた。視座のない人間であり、物事を考えようとしてもこれといって面白みのある結論や推察を行えない人間であるという考え。だから、今現在吸収しているものからスポンジを握るようにして中身の水分を搾り取るとまた、中身の無いスカスカした自分が出来上がるという寸法だ。だから、新しい小説の構想、読んだ本や観たアニメの感想なんかは書けても、自分のことについては基本的にカスっカスで書けないと。

 ただ、これについて最近は違う考え方をするようになってきている。

 元々、自分も大学時代あたりかなりのテキスト量があるメールなんかを一日多くて200通ペースでやりとりしていた。そこに書かれているのは歌詞だったり短編とも言えない短い小説だったりもしたが、一番多かったのはそれこそなんでもない自分のことだった。そして、自分が友人に長文メールをしなくなった時期とTwitterを始めた時期はリンクしている。こうやって考えると自分は「日記やブログを書くことそのもの」を苦手にしているのではなくて、そういった文章のはけ口が元々まったく違うものであったということなんじゃないかと思えてくるわけだ。

 現にTwitterをやめてからブログの更新は比較的増えているし、「こういうもの」も書いていい場所だと自分の中で定義すれば、案外、とりとめのない文章を残したりするタイプなのかもなあと思うようになった。

 元々、どちらにしても読み手のいない日記しか書かない自分ではあるが、「こういうもの」を書くとき、このブログが読者ゼロではないもののほとんどひとに読まれていないという事実は思った以上に自分の気持ちを楽にしてくれる。

 なんでもいいからなにかを書きたいとき、そういう場所があるのはしあわせで、きっとそれはなんでもいいからなにかを口にしたいとき、隣に聞いてくれる誰かがいるしあわせにすこしだけ似ているのだろうとか、そんなポエミーなことをちょっと、思う。

 ちなみに、こういう「日記が書けない」ネタで喋るのは前書いてたはてダやmixiなんかも含めて三〜四回目だ。いい加減前進しようぜ俺様ちゃん。なあ。